第90話:辺境の巡回兵 〜手詰まりの探検家〜
「……貴様ら、見かけない顔だな。どこの船の者だ?」
鬱蒼とした熱帯の森に、低く、しかしよく通る声が響いた。
コロンブスと水夫たちが、集落の豊かさに驚き、略奪の算段を立てようと剣に手をかけた、まさにその直後のことであった。
声の主は、森の奥から音もなく現れた数名の男たち。
彼らは、見事な藍染の法被を身にまとい、腰には鋭い輝きを放つ「日本刀」を下げていた。
手には、見慣れない形状の火縄銃。
そして何より、彼らの隙のない歩き方と、一切の動揺を見せない冷徹な眼差しは、彼らが「未開の戦士」などではなく、高度に訓練された正規の軍人であることを如実に物語っていた。
「ひっ……!」
先ほどまで「原住民を襲ってやる」と息巻いていた水夫たちが、その底知れぬ威圧感に後ずさりする。
コロンブスは、咄嗟に水夫たちを手で制し、前に出た。
「我々は……スペイン王国の航海士だ。嵐に遭い、食料と水を求めて漂着したのだ」
コロンブスは、スペイン語で堂々と、しかし可能な限り敵意を見せないように答えた。
当然、言葉が通じるとは思っていない。
身振り手振りで「遭難者」であることをアピールし、隙を見て逃げ出す算段だった。
しかし。
「……『すぺいん』? なるほど。南蛮の言葉か」
巡回兵の一人――小隊長らしき男が、腰の雑嚢から小さな小冊子を取り出し、パラパラと頁をめくった。
それは、薫子が編纂し、すべての海外拠点に配布されている「南蛮語対応マニュアル(簡易会話帳)」であった。
男は、小冊子に視線を落としながら、ひどく訛った、しかし確実に意味の通じるスペイン語で言葉を紡いだ。
「我々ハ……日本国、室町幕府ノ、警備兵ダ。オ前タチハ、手形ヲ、持ッテイルカ?」
「な……ッ!?」
言葉が通じたこと、そして未開の島だと思っていたこの場所に、確固たる『国家の法』と『手形』という概念が存在している事実に、コロンブスは雷に打たれたような衝撃を受けた。
コロンブスは、冷や汗を流しながら必死に頭を回転させた。
手形など持っているはずがない。
自分たちは、その関税を逃れるために密かにやってきたのだから。
「い、いや……手形はない。我々はただの遭難者だ。悪意はない。ただ、水と食料を……」
コロンブスがそう言いかけた時、小隊長の鋭い視線が、コロンブスたちの深く窪んだ眼窩と、骨と皮だけになった水夫たちの身体に向けられた。
そして、彼らが腰に下げている粗末な剣とマスケット銃にも。
「……手形無シ。漂流者カ、密航者カ。ドチラニセヨ、酷ク飢エテイルヨウダ。コノママデハ、疫病ノ恐レモアル」
小隊長は小冊子をしまい、部下たちに何事か日本語で短い指示を出した。
兵士たちは、武器を構えるでもなく、ただ事務的な動作でコロンブスたちの退路を塞ぐように展開した。
その無駄のない動き。
ただの辺境の村にすら、これほど洗練された軍事組織が巡回しているという現実。
『……逃げられない』
コロンブスは、その場に立ち尽くした。
仮に、今ここで目の前の数人を奇襲して倒せたとしても、どうなるというのだ。
自分たちの船はボロボロで、水も食料も完全に尽きている。
逃げ切ったところで、待っているのは海の上での緩やかな餓死だけだ。
そもそも、こんな名もなき辺境の村にまで、これほど高度な巡回システムと、言語マニュアルを持った正規兵が配置されているのだ。
彼らの本拠地(あの巨大な要塞港)が、どれほどの軍事力を有しているかなど、想像するのも恐ろしかった。
『……西の海に、ヤツらの管理が行き届いていない穴など、最初から存在しなかったのだ……!』
巨大な要塞港を偶然見つけただけではない。
この大陸の端から端まで、すべてがすでに彼らの経済網と、圧倒的な組織力によって完璧に支配されている。
その絶望的なまでの事実が、有能な探検家であるコロンブスの心を、完全にへし折った。
「……降伏する」
コロンブスは、震える手で腰の剣を外し、ゆっくりと地面に置いた。
「て、提督!?」
「武器を捨てろ……! 抵抗すれば、全員殺されるだけだ!」
水夫たちも、絶望の表情で次々と武器を投げ捨てた。
小隊長は、それを見て小さく頷くと、再び訛りの強いスペイン語で告げた。
「抵抗シナカッタ事ハ、賢明ダ。我々ハ、手形ナキ者ヲ、本営(加里武大関所)ヘ、連行スル。食料ト水ハ、支給スル。疫病ノ検査(検疫)モ、行ウ」
それは、野蛮な略奪者に対する宣告ではなく。
ただ淡々と、法律に基づいた『不法入国者の保護と連行』という、近代的な事務手続きであった。
スペインの栄光を取り戻すという大いなる野望。
未開の先住民から黄金を搾取し、歴史に名を刻むという強欲な夢。
それらはすべて、一滴の血が流れることもなく、ただの「辺境の巡回業務」によって、あっけなく終わりを告げたのである。
人類の歴史を変えるはずだった偉大なる探検家、クリストファー・コロンブス。
彼は今、一介の密入国者として、日本が支配する超近代的な要塞都市へと、重い足取りで連行されていくのだった。




