第87話:加里武(カリブ)大関所 〜発展途上の巨大玄関口〜
コロンブス率いる三隻の探検隊が、飢えと嵐の恐怖に怯えながら、大西洋の暗黒を必死に突き進んでいたその頃。
彼らが「悪魔の関税網をすり抜けた先の、誰もいない未開の聖域」だと盲信している海の向こうでは、まったく異なる光景が広がっていた。
そこは、どこまでも澄み渡るエメラルドグリーンの海。
『加里武海』
かつては未開の熱帯の島々が連なるだけだったその海域は、今や室町幕府の直属となった『畠山拓殖座』が統括する、世界最大級の海上ハブ拠点にして、不落の要塞都市へと変貌を遂げていた。
港湾にそびえ立つ巨大な石造りの商館ビルからは、絶え間なく黒い煙が立ち上り、新時代の産業の息吹を告げている。
湾内を埋め尽くすのは、数百隻に及ぶ巨大な幕府の商船や、各地の拓殖座が所有する武装船団であった。
「おい、そこの荷積みを急げ! 本国行きの定期便の出港時刻が迫っておじゃるぞ!」
「右舷の荷揚げ、もっと速度を上げよ! 南蛮から届いた箱を、最優先で倉庫へ格納するのじゃ!」
加里武大関所の港湾地域では、畠山拓殖座に所属する算盤を抱えた役人や、法被をまとった屈強な水夫たちが、怒号のような声を掛け合いながら慌ただしく立ち働いていた。
ここ加里武は、ただの港ではない。
畠山拓殖座が開発を進める「大東大陸の東海岸」の富と、斯波拓殖座が支配する「西海岸」の富が、見事に交差する最大の玄関口であった。
かつてパナマ地峡に建設され、最近になって交通量の爆発的増加に伴う『大拡幅工事』を完了した巨大石畳街道。
そこから24時間体制の馬車リレーによって、西海岸から運ばれてきた太平洋側の物資が、この加里武へと泥淀みなく流れ込んでくるのだ。
新大陸産のトウモロコシやジャガイモ、トマトといった大量の兵糧。
山から掘り出された未曾有の金銀。
それらがすべてこの大関所に集約され、巨大な帳簿に事務的に記録され、日の本の本国へと運ばれていく。
この洗練された巨大な物流システムの中では、一滴の無駄も、一切の隙間も存在し得なかった。
商館の最上階にある広大な総督室では、畠山大商館の若き実務責任者が、本国から届いた最新の手紙を手に、穏やかな海を見下ろしていた。
「……薫子殿からの直状か。相変わらず、我らの先を数手も読み切っておじゃりまするな」
青年は、感嘆のため息をつきながら手紙を机に置いた。
手紙には、薫子の独特な、しかし理路整然とした美しい文字で、今後の加里武の防衛および関税体制の強化についての指示が細かく記されていた。
『畠山様。加里武は、大東大陸のすべての富が集まる心臓部におじゃります。それゆえ、いずれ欧州の南蛮どもが、こちらの関税を嫌がって大西洋を渡り、抜け道を探しに現れる可能性がゼロではおじゃりませぬ。万が一、手形(通行許可証)を持たぬ密航船や不審な船が現れた際は、いかなる言い訳も無用。幕府の法に則り、マニュアル通り事務的に拿捕しておくれやす』
青年は、窓の外で誇らしげに翻る「日章二引両旗」を見つめながら、不敵に微笑んだ。
「ふふ、薫子殿も心配性でおじゃるな。いくら強欲な南蛮どもとて、この果てしない大西洋を、手形もなしに木っ端船で渡ってくるような命知らずの阿呆がいるはずなかろうに」
そう、日本側は、コロンブスという男の存在など露ほども知らなかった。
彼らにとって、南蛮とは、細川や山名がすでに表玄関(大西洋東部やアフリカ)からがっちりと経済支配し、毎年莫大な関税を大人しく納めてくる「巨大な顧客」の一つに過ぎない。
その南蛮の、さらに一介の落ちぶれた船乗りが、狂気的な勘違いから三隻のボロ船でこちらに向かっているなど、夢にも思っていなかったのである。
加里武大関所の日常は、驚異的な繁栄と、冷徹なまでの安定の中にあった。
検疫所では、本国から導入された最新の衛生法に基づき、船員たちの健康状態が厳格にチェックされ、港湾の至る所に敷設された上下水道が、熱帯特有の疫病の発生を完璧に抑え込んでいる。
水夫たちは、大東大陸産の新鮮な食材に、日の本から運ばれてきた味噌や醤油を合わせた極上の飯を食い、明日の航海に向けて活力を養っていた。
そこには、コロンブスたちが想像するような「野蛮な未開の地」など、どこを探しても存在しなかった。
あるのは、欧州の文明を遥か後方に置き去りにした、超近代的な資本主義の「城塞都市」そのものである。
***
その夜、加里武の港は、数千個のランタンの光で美しく彩られていた。
夜間も荷揚げ作業は止まることなく、梃子の原理を使った巨大な吊り上げ機が規則的な音を立てて動き続けている。
不落の要塞としての側面を持つこの大関所には、数百門の最新式の大砲が、漆黒の大西洋に向けて静かに銃口を開いていた。
それは、関税網の「穴」などという生易しいものが、最初から一寸の隙もなく塞がれていることを示す、圧倒的な鉄の壁であった。
日本側にとっては、ただの豊かで平和な、いつも通りの帳簿を付ける日常。
だが、その日常そのものが、大西洋の暗闇の中で「黄金郷」を夢見るコロンブスを待ち受ける、世界で最も残酷な罠と化していた。
「今夜も海は静かでおじゃるな。異常なし、と」
見張りの兵士から報告を受けた責任者が、退屈そうに夜の海へ視線を送りながら、手元の帳簿に筆を走らせる。
その視線の遥か先、暗黒の水平線の向こうから。
歴史の主役に躍り出るはずだった哀れな三隻の影が、何も知らずに、刻一刻とこの「完璧なる絶対防壁」へと近づきつつあった。




