第86話:サンタ・マリア号の出航と、未知なる海
一四九二年八月。
スペインのパロス港から、三隻のキャラベル船とカラック船が、静かに西の海へと漕ぎ出した。
旗艦サンタ・マリア号、そしてピンタ号、ニーニャ号。
総勢九十名ほどの乗組員を乗せたこの小さな船団は、日本の完璧な経済支配によって真綿で首を絞められ、緩やかな衰退を待つばかりとなっていたスペイン王国にとって、文字通り「一縷の望み」であった。
港には、期待に満ちた顔で見送る廷臣たちの姿があった。
旗艦サンタ・マリア号の甲板に立つクリストファー・コロンブスは、彼らの悲壮な視線を背に受けながら、吹き抜ける潮風を胸いっぱいに吸い込んだ。
『見ているがいい、同胞たちよ。そして、我らを関税の鎖で縛り上げた悪魔どもよ! このコロンブスが、貴様らの関税網の「穴」を突き、莫大な黄金を直接この国へ持ち帰ってやる!』
彼の瞳には、未知の海への恐怖など微塵もなかった。
あるのは、己の推論に対する絶対的な自信と、失われたスペインの栄光を取り戻すという狂気じみた野心だけである。
カナリア諸島を抜け、船団はいよいよ、かつて誰も足を踏み入れたことのない「暗黒の海」――広大なる大西洋へと突入していった。
***
出航から数週間が経過した。
最初は順調に風を捉えていた船団だったが、見渡す限り陸地の影すら見えない単調で絶望的な日々が続くにつれ、船内にはどす黒い不安が渦巻き始めていた。
「おい……本当にこの先にインディアスなんてあるのか?」
「もう何日も陸を見ていねえぞ。食い物も水も、このままじゃ半分も保たねえ」
甲板の片隅で、水夫たちが力なく呟き合う。
彼らを苛立たせているのは、未知の海への恐怖だけではなかった。
「なぁ、提督は『ヤツらの関税網の穴を突く』なんて豪語してるがよ……もし、西の海のど真ん中に、あの悪魔どもの軍艦が待ち構えていたらどうするんだ?」
一人の水夫が、声を潜めて震えるように言った。
その言葉に、周囲の者たちの顔からスッと血の気が引く。
数年前、カナリア諸島沖で無敵艦隊が一方的に蹂躙されたという記憶は、彼ら海の男たちにとって拭いがたいトラウマとなっていた。
「あり得るぜ……。ヤツらの船は、山のように巨大で、見たこともない大砲を何十門も積んでいるって話だ。もしそんなたたたたバケモノと遭遇したら、俺たちのこんなボロ船、木っ端微塵だぞ……!」
「俺は降りる! もうスペインへ引き返すべきだ!」
恐怖と飢えから来る水夫たちの不満は、ついに暴動の一歩手前にまで膨れ上がっていた。
「騒ぐな!!」
甲板に、コロンブスの怒声が響き渡った。
彼は腰の剣の柄に手をかけ、目を血走らせて水夫たちをギロリと睨みつけた。
「貴様ら、スペインの誇りを忘れたか! あの忌まわしき悪魔どもに小銭をむしり取られ、這いつくばって生きるのがお似合いだとでも言うのか!」
「し、しかし提督! このまま進んで、もしヤツらの関所にぶつかったら……」
「馬鹿者! 私の推論を疑うのか!」
コロンブスは、怯える水夫の胸ぐらを荒々しく掴み上げた。
「海は丸く、そして無限に等しいほど広大なのだ! いくらヤツらが強大であろうと、この広大な西の海すべてに船を並べ、隙間なく監視することなど絶対に不可能だ!」
『そうだ。ヤツらは全能の神ではない。関税の小銭稼ぎのために、最前線の欧州近海に関所を集中させているはずなのだ。背後にあるこの広大な西の海は、ヤツら自身も管理しきれていない「完全なる空白地帯」なのだ!』
コロンブスは、自らの信じる論理を、水夫たちに、そして自分自身に言い聞かせるように熱弁を振るう。
「恐れることはない! この西の海にヤツらの関所など存在しない! 我々はこのまま真っ直ぐ進み、ヤツらの監視網をすり抜けて、祖国へ黄金を持ち帰るのだ! そうすれば、貴様らも一生遊んで暮らせるほどの富を得られるのだぞ!」
黄金という言葉に、水夫たちの目に再び生々しい欲望の色が宿る。
「……本当だな、提督? 本当に、ヤツらの関所はないんだな?」
「神に誓って! 私を信じろ、インディアスはもうすぐそこだ!」
コロンブスの狂気的な気迫と、黄金の誘惑に押され、水夫たちはどうにか暴動の鉾を収めた。
***
一四九二年十月。
出航から二ヶ月以上が経過し、航海はいよいよ極限状態を迎えていた。
食料は底を突きかけ、水は腐り、船内には壊血病の初期症状を訴える者が続出していた。
太陽は容赦なく照りつけ、風は気まぐれに船を弄ぶ。
もはや黄金への欲望すらも薄れ、水夫たちの目は生気を失い、ただ死を待つ亡者のようになっていた。
『……なぜだ。私の計算では、とうにインディアスに到達しているはずなのに……。いや、私の推論が間違っているはずがない! 大地は丸いのだ! 西へ進めば必ず陸にぶつかる!』
コロンブス自身もまた、ひび割れた唇を噛み締めながら、見張台からただひたすらに水平線を睨み続けていた。
もしこのまま陸地が見つからなければ、自分は狂人として海に放り込まれるか、飢えと渇きで全滅するかのどちらかだ。
焦燥と絶望が、彼の理性を限界まで削り取っていく。
その時だった。
「て、提督……! あれを!」
見張台にいた水夫が、しゃがれた声で叫び、震える指で空を指差した。
コロンブスが弾かれたように顔を上げる。
そこには、一羽の鳥が飛んでいた。
海鳥だ。陸地からそう遠くない海域にしか生息しない、希望の翼であった。
さらに船首の波間には、青々とした葉をつけた木の枝が漂着してきている。
「陸だ……! 陸が近いぞ!!」
コロンブスの叫び声に、死体のように横たわっていた水夫たちが一斉に甲板に這い出てきた。
「おお……! 神よ、感謝します!」
「ついに、インディアスへ着いたんだ!」
船上は、狂乱のような歓喜に包まれた。
コロンブスは甲板に崩れ落ち、熱い涙を流しながら両手を天に掲げた。
『見たか、悪魔どもめ! 私はやり遂げたぞ! 貴様らが欧州近海でふんぞり返っている間に、私は管理の行き届かぬ西の空白地帯を通り抜け、関税網の「完璧な穴」を見つけ出したのだ!』
彼は、自らの推論が完全に証明されたと確信し、勝利の喜びに打ち震えていた。
「針路をそのまま保て! 明日の朝には、我らの目の前に黄金の国が姿を現すぞ!」
この時のコロンブスは、まだ知る由もなかった。
彼らが命がけで辿り着いたその場所が、「未開のインディアス」などではなく。
すでに日本の大商館によって徹底的に開拓し尽くされ、超高度な関税システムが敷かれた『加里武大関所』という名の、巨大なメガロポリスの玄関口であることを。
絶望へのカウントダウンは、歓喜の産声とともに最終局面を迎えていた。




