第85話:クリストファー・コロンブスの大いなる野望
一四九二年、イベリア半島。
スペイン王国の王宮では、重苦しい空気に包まれた御前会議が開かれていた。
「……またしても、悪魔どもに莫大な関税をむしり取られたというのですか」
玉座に座るイサベル女王は、疲労の色が濃い顔で深く重い溜息を吐き出した。
彼女の足元には、財務長官が持ち込んだ重税と貿易赤字の報告書が置かれている。
数年前、カナリア諸島沖で誇り高き「無敵艦隊」が、西の海から突如として現れた異教徒の巨大船団によって海の藻屑と化して以来、スペインの経済は完全に首を絞められていた。
もっとも、宮廷の者たちはさも理不尽な被害者のように語るが、彼らは決して、悪逆非道な軍事侵略を受けたわけではない。
西の大西洋を横断して現れた日本の商船団が持つ莫大な富に目が眩み、力ずくで強奪しようとスペイン側から一方的に大艦隊で襲撃を仕掛けた結果、圧倒的な技術と火力の差の前に、完膚なきまでに返り討ちに遭った……ただの自業自得なのである。
ともあれ、敗戦国となったスペインは、アフリカ沿岸や、中東へ至る陸路など、全ての貿易が「日章二引両旗」を掲げる巨大な商会の経済網に組み込まれていた。
海に出れば通行税を課され、逆らえば理不尽な経済制裁が待っている。
「陛下。もはやヤツらの商会を通さねば、香辛料の一粒すら手に入りません。国庫が直ちに尽きることはありませんが……このまま真綿で首を絞められ続ければ、かつて海を支配したスペインの栄光は完全に失われ、ヤツらの単なる属国へと成り果てましょう」
財務長官が、絞り出すような声で進言した。
「分かっています。あの屈辱的な敗戦から数年……誇り高きスペインが、ここまで落ちぶれるとは。何としても、我らの栄光を取り戻す道はないのですか。南へ向かえばヤツらの大砲が待ち構え、東の諸国は我々に背を向けているというのに……」
絶望的な沈黙が会議室を支配した時、一人の側近が進み出た。
「陛下。以前、王室の委員会が『狂人の戯言』として却下した、あのジェノヴァ人の航海士の案……あれを、もう一度だけお聞きになってみてはいかがでしょうか」
「……あの、西へ向かえばインディアスへ着くと豪語していた男ですか?」
イサベル女王は眉をひそめたが、栄光を取り戻すためならば、もはや藁にでも縋りたい心境であった。
「……いいでしょう。ここに通しなさい」
女王の許可が下り、重厚な扉が開かれた。
二人の衛兵に挟まれるようにして、一人の男が謁見の間に進み出てきた。
イタリア・ジェノヴァ出身の野心に満ちた航海士、クリストファー・コロンブスである。
彼は、狂気にも似た熱を帯びた瞳で女王を見据え、恭しく一礼した。
「恐れながら、女王陛下。我らがスペインが、あの忌まわしき異教徒どもの関税網の『穴』を突き、再び大国の栄光を掴むための道を、このコロンブスがご提案に上がりました」
「……関税網の穴だと? 条約には『ヤツらが関与する全ての海域で関税を払え』と明記されておる。南の海も、東の陸路も、全てヤツらに睨まれているというのに。いったいどこにそのような道があるというのだ」
女王の問いに、コロンブスは自信に満ちた笑みを浮かべ、小脇に抱えていた丸めた羊皮紙を、王宮の床にバサリと広げた。
それは、彼自身が信奉するトスカネリの学説に基づいた、独自の世界地図であった。
「大地は、丸いのです。陛下」
コロンブスは、広げた地図の「西の果て」を力強く指差した。
「ヤツら悪魔どもは、西から現れて我々の近海(カナリア諸島)を制圧し、関所を設けました。ならば、我々がその監視網をすり抜け、ひたすら広大な『西の海』へ向かうのです」
日本側は欧州の海を「武力で軍事制圧」した訳ではないが、スペイン側の主張としては、ある意味正しいのかもしれない。
十字軍の結成を平和的に阻止しつつ、正当な貿易をしていただけである。
しかし、誇り高い欧州の者たちからすれば、自国の近海で有無を言わさず銭を吸い上げられるこの完璧な経済支配は、野蛮な武力制圧以上に屈辱的な『侵略』として映っていたのである。
「……西から現れたヤツらに対し、西へ向かえと? 自らヤツらの本拠地へ飛び込むようなものではないか」
女王の当然の疑問に、コロンブスは目をギラギラと輝かせて首を振った。
「いかにも! ヤツらは強大ですが、全能の神ではありません! あの広大な西の海すべてを、隙間なく管理するなど絶対に不可能です! 広大な西の海を進めば、ヤツらが管理できていない場所、すなわち関税網の『穴』が必ずあるはずなのです!」
その一言が、廷臣たちの間にざわめきを生んだ。
「陛下!事実、ヤツらが突きつけてきたあの屈辱的な条約文には、欧州近海やアフリカの支配権は明記されていますが、『西の果ての海』についてはただの一言も言及されていません。それはなぜか? 答えは一つ。ヤツら自身が、西の広大な海を完全に掌握できていない証拠です!」
コロンブスの熱弁に、宮廷の廷臣たちが色めき立った。
「馬鹿なことを! 西から来たヤツらの海へ漕ぎ出すなど自殺行為だ!」
「それに、どれほど距離があると思っている! 到達する前に水と食料が尽き、船員は全滅するぞ!」
廷臣たちの嘲笑と罵声が飛ぶが、コロンブスは一切ひるまなかった。
「無知なる者どもは黙っていろ! 私の計算によれば、インディアスまでの距離は決して遠くない! あの広大な空白の海を突き進み、ヤツらの監視の目が届かない『手付かずのルート』を見つけ出せば、関所の役人に一滴の血も銭も搾取されることなく、富の源泉であるインディアスへ直接到達できるはずなのだ!」
彼らの視点からすれば、西の海は条約に記載されていない「管理の行き届かない空白地帯」であり、そこを抜ければ関税網の穴を突けるという、一見すると筋の通った推論であった。
『見抜いてみせたぞ、悪魔どもめ。最前線での関税の小銭稼ぎに気を取られ、自分たちの背後にある広大な海を管理しきれていないという致命的な隙をな! その手付かずの穴が、我らに残された「抜け道」なのだ!』
コロンブスは、自らの推論は完璧だと酔いしれていた。
「陛下! 私に三隻の船と、水夫をお与えください! 私がこの西の海を渡り、ヤツらの関税網の穴を見つけ出し、無尽蔵の黄金を持ち帰ってみせます! さすれば、スペインは必ずやかつての栄光を取り戻せましょう!」
それは、緩やかな衰退を待つしかなかったスペイン王国にとって、あまりにも甘美で、失われた誇りを取り戻す希望に満ちた毒であった。
イサベル女王の瞳に、再び強い光が宿る。
「……コロンブス。そなたの言う通り、西の広大な海にヤツらの管理が行き届かぬ『穴』があり、そこから莫大な富を得られると、本気で信じておるのだな?」
「神に誓って。この命に代えても、必ずや栄光のインディアスへ到達してみせましょう」
コロンブスは、床に跪き、十字を切った。
「よかろう。もはや我らに、過去の栄光を諦めるという選択肢はない。サンタ・マリア号をはじめとする三隻の船と、必要な物資をそなたに与えよう。行け、コロンブスよ。そして、あの忌まわしき悪魔どもの関税網をすり抜ける、真の未開の航路を見つけ出すのだ!」
「ははっ! 女王陛下万歳! スペイン王国万歳!」
コロンブスは、喜びに打ち震えながら深く頭を下げた。
***
数日後、パロス港。
出航の準備が進むサンタ・マリア号の甲板で、コロンブスは吹き抜ける海風を胸いっぱいに吸い込んでいた。
『ついに、この時が来た……! あの忌まわしき悪魔どもよ、貴様らが欧州の近海で関税を数えてふんぞり返っている間に、私は管理の行き届かぬ西の深い海を渡り、貴様らの関所を素通りして莫大な富を直接独り占めにしてやる!』
彼は、関所のない未知の海と、その向こうに眠る無尽蔵の黄金を夢見て、興奮に頬を紅潮させていた。
『待っていろ、インディアス! このクリストファー・コロンブスが、誰も知らぬ監視の穴を切り拓き、我がスペインに栄光をもたらしてやろう!』
彼の推論は、ある意味で正しかった。
広大な海を完璧に管理することなど、確かに不可能である。西へ真っ直ぐ進めば、確かに陸地へとぶつかる。
だが、彼は致命的な事実を知らなかった。
彼が「管理の行き届いていない関税網の穴」だと信じて疑わないその海域こそが、すでに日本の大商館(畠山)によって徹底的に開発し尽くされ、数え切れないほどの防波堤と関所が築かれた、世界最大にして最悪の「要塞都市」のど真ん中であるという、残酷すぎる真実を。
歴史のすれ違いが生んだ、人類史上最も滑稽で、絶望的な航海が。
今、静かに幕を開けようとしていた。




