第84話:医療と衛生、そして「食の兵站」の極致
京都、室町本社の奥の院。
将軍正室・日野富子の前に、色鮮やかな湯気を立てる一つの椀が恭しく差し出された。
「ほう。これはまた、何とも毒々しい……いや、目を引く赤色やね。大東大陸の宝とやらを使ったと聞いたが?」
富子は、興味深そうに箸を手に取った。
「はい。かの地より斯波様や畠山様が持ち帰られた『赤茄子』と呼ばれる果実に、大内様が南洋から運ばれた香辛料、そして堺の職人が仕込んだ熟成味噌と鰹出汁を合わせた、特製の汁物におじゃりまする。どうぞ、お召し上がりいただきとうおじゃりまする」
薫子が、傍らで丁寧にお辞儀をしながら勧める。
富子は小口に切られた鶏肉と、とろけるような赤い汁を一緒に口へ運んだ。
その瞬間、富子の端正な顔立ちに、はっきりとした驚きの色が浮かんだ。
「……美味い。なんやこれ! 味噌と出汁の深い旨味に、この赤茄子の爽やかな酸味が絶妙に絡みおうて……。それに、飲んだ端から体の底から力が湧いてくるような、不思議な熱があるえ」
「お気に召しまして、何よりにおじゃりまする。その赤茄子には、血の巡りを良くし、長旅の病を遠ざける強い力(滋養)が秘められておるのです。さらに、同じく持ち帰られた『唐辛子』の辛味を微かに効かせておじゃりまするゆえ、食欲を否応なく掻き立てましょう」
『ふふふ……鰹出汁のイノシン酸、味噌のグルタミン酸、そしてトマトのグアニル酸! 旨味成分の最強シナジーに、ビタミンCとカプサイシンの暴力よ! こんなもの、当時の食生活にぶち込んだら美味いに決まってるわ!』
薫子は、すまし顔の裏でガッツポーズを決めていた。
大東大陸からもたらされたジャガイモやトウモロコシによる「炭水化物革命」は、すでに日本の飢餓を完全に過去のものとしていた。
それに加えて、赤茄子や南瓜、落花生といった未知の食材が、室町幕府の物流網に乗って次々と国内へ流入し、日本の伝統的な発酵調味料(味噌や醤油の原型)と奇跡的な融合を果たしていたのである。
「恐ろしいことやわ、薫子。大東大陸の食べ物は、ただ腹を満たすだけやない。人間の体を根っこから強くしよる。これを食うて育つこれからの日の本の赤子たちは、いったいどれほど逞しく育つんやろうな」
富子は、椀を空にしながら感嘆の溜息を漏らした。
「富子様の仰る通りにおじゃりまする。食こそは、最大の『兵站』。どれほど強固な大砲を造ろうとも、それを扱う民が病に伏せ、飢えていては国は立ちませぬ」
***
「そして、その『兵站』を活かすためのもう一つの仕掛け……『水と厠の掟』も、京の都をはじめ全国の主要な都市で、完璧に機能し始めておじゃりまする」
薫子は、窓の外に広がる巨大な京都の街並みを見下ろしながら言った。
眼下に広がるのは、見渡す限りの瓦屋根と、整然と区画された美しい大通りである。
かつては路地に汚水が溢れ、疫病の温床となりやすかった中世の都は、今や完全に姿を変えていた。
幕府の莫大な資金を投じて、街の地下には強固な「上下水道」が張り巡らされている。
飲料水は遠くの清らかな水源から石造りの水路で運ばれ、屎尿などの汚水は専用の暗渠を通って完全に分離され、郊外の巨大な処理施設(肥料化工場)へと送られる仕組みになっていた。
「町奉行からの報告によれば、この数年で、都における赤子の死ぬ数が、かつての十分の一以下にまで激減したそうやないか」
富子が、手元の書状を満足げに眺めながら言った。
「はい。『生水は必ず煮沸してから飲むこと』『飯を食う前には必ず手を洗うこと』。そして何より、人と物の出入りが激しい湊町には『検疫所(湯屋を兼ねた隔離施設)』を設け、病の種を水際で防ぐ。これら『予防医学』の掟を徹底させた成果におじゃりまする」
『そう。抗生物質がないこの時代において、人を殺す最大の敵は他国の軍隊じゃない。感染症よ。どれだけ経済が発展してメガロポリスができても、衛生環境が中世のままなら、パンデミックであっという間に国は崩壊する。だからこそ、私は意地でも上下水道と公衆衛生の概念を叩き込んだのよ』
「銭だけではない、人の命すらも我が幕府は自在に増やせるというわけやな。……ふふっ、笑いが止まらんわ」
富子は、窓の外から絶え間なく聞こえてくる、子供たちの元気な笑い声に耳を傾けた。
飢餓の消滅と、衛生環境の劇的な改善。
この二つの魔法が組み合わさった結果、日本列島では人類史上で類を見ないほどの「圧倒的な人口爆発」が起きていた。
豊富な栄養と医療の知識によって生き残った大量の若者たちが、次々と新たな工場の労働力となり、兵士となり、商人となって世界中へ散らばっていく。
人が増えれば富が増え、富が増えればさらに人が増える。
室町幕府が創り上げたこの無敵のサイクルは、もはや欧州のいかなる国にも追いつけない、異次元の国力を日本にもたらしていた。
***
「それに引き換え……南蛮の連中と来たら、どうおじゃりまするか」
薫子は、細川大商館から届いたばかりの、欧州の情勢を記した分厚い報告書をパラパラと捲った。
「なんや。勝元から、また汚い文でも届いたんか?」
「はい。細川様が駐在しておられる巴里や倫敦などの大都市では、相変わらず道端に平気で汚物を投げ捨て、豚がそれを食らい、得体の知れぬ熱病で毎日荷車山盛りほどの死者が出ているとのこと。人口は一向に増えず、我らが関税で吸い上げる銀の支払いに追われ、民は常に飢えているとおじゃりまする」
「……呆れた連中やわ。自らの手で街を肥溜めにし、病で勝手に死んでいくとはな。そんな不衛生な野蛮人どもが、いかにしてこの清潔で豊かな日の本に抗えるというんや」
富子は、心底軽蔑したように鼻を鳴らした。
『当時のヨーロッパの公衆衛生は、本当に冗談抜きで最悪レベルだからね。ペストで人口の三分の一が死んだ教訓も全く生かされてない。彼らが「不潔な中世」で足踏みしている間に、日本は「健康で豊かな近代」へ一人で突っ走っている。この基礎体力の差は、大砲の数なんかよりよっぽど残酷な壁よ』
「圧倒的な『食』と『衛生』。この見えざる兵站こそが、我らが誇る最強の盾にして矛におじゃりまする。もはや、この地球上で我らの国力に挑める愚か者など、どこを探しても存在しませぬな」
薫子は、報告書を静かに卓に置き、不敵な笑みを浮かべた。
「ええことや。皆が腹一杯食うて、健康で、死に物狂いで銭を稼ぐ。この美しい太平の世を、誰にも邪魔はさせんえ」
二人の女傑の足元で、日本の国力は、物理的にも人口統計的にも、未知の領域へと膨張し続けていた。
しかし、歴史の皮肉とは恐ろしいものである。
日本のあまりにも巨大な関税網と、富の独占。
それによって首を絞められ、飢えと貧困に喘ぐ南蛮の地からこそ、「常識外れの裏道」を探そうとする狂気的な情熱が生まれることになろうとは。
この時の日本は、まだ知る由もなかった。




