第80話:次なる時代への布石
大西洋での圧倒的な勝利と、欧州経済の掌握。
室町幕府が敷いた新世界秩序によって、世界は表向きの静寂を取り戻しつつあった。
夜の帳が下りた京都、室町第。
薫子は自室の文机に広げられた巨大な「幕府公式世界海図」を見下ろしていた。
行灯の淡い光に照らされた海図には、太平洋と大西洋、そしてユーラシアとアメリカという二つの巨大な大陸の輪郭が、すでに明確な線として描かれている。
「武力による略奪の時代は終わったわ。……これからは、経済と知性で世界を回す『平和な交易の時代』でおじゃる」
薫子は、海図の上に引かれた無数の交易ルート(物流の血脈)を指先でなぞりながら、誰に言うともなく呟いた。
しかし、彼女の瞳には、決して油断の色はなかった。
『人間という生き物は、どれほど完璧な檻に閉じ込められようとも、必ずその隙間を縫って這い出そうとするものよ』
圧倒的な関税網で締め付けられた南蛮(欧州)の国々が、このまま大人しく搾取され続けるとは限らない。
彼らの中にも、野心に燃え、一攫千金を夢見て「未知の海」へ漕ぎ出そうとする狂気を持った人間が、必ず現れるはずだ。
薫子は、海図の右端――まだ航路が引かれていない、広大な大西洋の「空白の海域」を見つめ、静かに目を細めた。
***
同じ頃。
地球の裏側、欧州のイベリア半島。ポルトガル王国、リスボンの場末の酒場。
安酒の酸っぱい匂いと、荒くれ者たちの怒声が飛び交う薄暗い店内の片隅で、一人の男が古びた羊皮紙の地図を睨みつけていた。
男の目は血走り、その顔には取り憑かれたような狂気が宿っている。
「……くそっ。ジパングの商人どもめ。教皇聖下も王たちも、すっかり奴らの金の力に屈してしまった」
男は、ジョッキの底に残った酒を一気に飲み干し、ドンと乱暴にテーブルに置いた。
男の名は、クリストファー・コロンブス。
イタリアのジェノヴァ出身の、野心に溢れる海の一匹狼であった。
「奴らは西の海から巨大な船団で現れ、我々の海を封鎖した。……つまり、あの西の海の向こうには、確実に莫大な富が眠る『黄金の国』や、香辛料の宝庫『インディアス(東洋)』へと繋がる道があるということだ!」
コロンブスは、手元の地図の「西の海(大西洋)」を指で強く叩いた。
現在、欧州近海から地中海に至るまで、主要な交易路は完全に「室町幕府の関税網」に掌握されていた。
まともに商売をしようとすれば、必ず奴らの関所で莫大な通行料を取られ、富を吸い上げられてしまう。
「真っ向から商いをしていては、永遠に奴らの奴隷だ。……だが、地球は丸い!」
コロンブスの瞳に、ギラギラとした欲望の炎が燃え上がった。
「奴らの監視網をくぐり抜け、誰も通ったことのない西の海をひたすら直進すれば……関所を通らずに、直接インディアスの富の源泉へたどり着けるはずだ! そうすれば、俺は莫大な黄金を手に入れ、歴史に名を残す偉大な提督になれる……!」
日本の関税網から逃れるための、究極の密輸ルートの開拓。
それこそが、この世界線におけるコロンブスを突き動かす、強烈なモチベーションであった。
彼は知る由もなかった。
自らが決死の思いで発見しようとしている「西の裏口」のその先に、すでに室町幕府の規格外の巨大要塞――『加里武大関所』が、口を開けて待ち構えているという絶望的な事実を。
世界を飲み込んだ日本の「算盤」と、それに抗い、己の野心を証明しようとする欧州の探求者たち。
歴史の針は、大航海時代の次なるステージ――「真の世界規模の陣取り合戦」へと向けて、静かに、しかし確実に動き始めていた。




