第73話:経済兵器の発動 〜東西コンボ「銀と毛皮のダブルダンピング」〜
京都、室町第。
美しく整えられた庭園を望む広間には、穏やかな秋の陽射しが差し込んでいた。しかし、その静寂とは裏腹に、届けられた一枚の書状は、世界を揺るがすほどの重い事実を告げていた。
はるか遠く南蛮のフィレンツェ――幕府が莫大な黄金で買収し、特権を与えた巨大銀行メディチ家から、商人たちの秘密の経路を乗り継いで届けられた密書である。
書状に目を通した日野富子は、呆れたようにため息をつき、手元の扇子をパチンと閉じた。
「……ほんまに、野蛮な連中やおすな。南蛮のスペインとやら……女王自らが音頭をとって、国中の財をかき集め、大艦隊を造っとるそうや」
富子の傍らで、見事な蒔絵の文箱を撫でていた薫子が、静かに微笑んだ。
「教皇様を札束で味方につけられ、さらに我らに商いを独占されて富を吸い上げられたのが、よほど腹に据えかねたのでおじゃりますな」
薫子の言葉には、将軍正室である富子への敬意がありつつも、幼少期から長年苦楽を共にしてきた相棒としての親しみが込められていた。
『無敵艦隊、ね……。史実より数十年も早いお出ましだけど、武力で全てを奪い返せると思っているあたり、中世の脳ミソから一歩も抜け出せていないわね』
薫子の瞳の奥に、冷たい氷のような光が宿る。
「武力で威圧すれば、我らが恐れをなして富を差し出すとでも思うておるのでおじゃりましょう。……いささか、痛い目を見せてやらねばなりませぬな」
「どないするんや、薫子。迎え撃つ細川や山名の軍船だけでは、ちと骨が折れるんやないか?」
「戦には、刀も筒(鉄砲)も使わぬ戦い方がおじゃります。……富子様。大内が治める石見の銀山と、足利成氏らが北の極寒の海で集めた極上の毛皮。今、南蛮の蔵にはどれほど積まれておりましょうや?」
富子は少し考え、ふふっと悪戯っぽく笑った。
「そらもう、山ほどおすえ。わざと少しずつしか市場に流さず、価値を限界まで吊り上げとるんやからな」
薫子はゆっくりと立ち上がり、広間に飾られた世界地図の「欧州」の部分を扇子で指し示した。
「では、その蔵の底を、今すぐ叩き抜いてしまいましょう」
薫子の声は静かだったが、そこには数万の軍勢を動かす以上の凄まじい威力が込められていた。
「細川と山名に文をお出しくだされ。大内の『銀』と、足利の『毛皮』。相場など一切気にせず、タダ同然の捨て値で南蛮の市場にぶちまけよ、とな」
富子は目を丸くした後、口元を扇子で隠して艶やかに笑った。
「えげつないことしはるな。そないなことしたら、南蛮の相場が崩壊して、大艦隊に銭を出しとる貴族や商人どもがみな首を吊るで? ……せやけど、我らが贔屓にしとるメディチの銀行まで巻き添えを食うんやないか?」
薫子はふっと目を細め、底知れぬ凄みを漂わせた。
「ご案じなされますな。我らの財布たるメディチには、先に早船で『相場崩壊』の予告を報せるのでおじゃります。奴らには高値のうちにすべての資産を売り抜けさせ……逆に、暴落して紙切れ同然となった南蛮貴族たちの債権を、底値で買い叩かせましょうぞ」
***
数ヶ月後。南蛮最大の商業都市の一つ、リスボンの広場。
そこは、これまで見たこともないような異常な熱狂と、凄まじい絶望の渦に包まれていた。
「おい! 見ろ! ジパングの商人どもが、また銀を運んできたぞ!」
「嘘だろう!? 先週の半値以下じゃないか!」
「最高級のラッコの毛皮が、羊の毛より安く叩き売られているぞ!」
広場の中央では、細川や山名の配下である堺の商人たちが、山積みになった眩いばかりの銀塊と、ため息が出るほど美しい毛皮を、まるで石ころや雑草でも売るかのような投げやりな値段で売り捌いていた。
「さあさあ! なんぼでもありまっせ! 買わな損、買わな損やで!」
「銀も毛皮も、まだまだ船に山ほど積んどる境にな! 持ってけ泥棒!」
民衆は歓喜し、我先にと日本の品を買い求めた。
しかし、この異常な安売り(ダンピング)が意味する「真の恐怖」に気づいた者たちは、血の気を失い、その場にへたり込んでいた。
スペイン女王の「大艦隊建造」に、莫大な資金を出資していた貴族や豪商たちである。
彼らの多くは、自身の持つ資産(銀や毛皮などの交易品)を担保にして銀行から金を借り、大艦隊の勝利による「ジパングからの富の強奪」を夢見て投資を行っていた。
しかし、日本側が意図的に市場へ超大量の銀と毛皮を放出したことで、担保の価値が完全に消し飛んでしまったのだ。
「お、終わりだ……。私の持っている銀の価値が、ただの鉄クズ同然に暴落してしまった……!」
広場の片隅で、着飾った貴族が一人、頭を抱えて泣き叫んでいた。
そこに、冷酷な目つきをしたメディチ銀行の代理人たちが、分厚い借用書の束を手に近づいてくる。
「担保価値の喪失により、全額の即時返済を求めます。払えぬのであれば、貴方様の領地と屋敷、すべてを没収させていただきます」
圧倒的な供給力による、意図的な市場破壊と、メディチ家による冷酷な債権回収。
西国・大内の持つ無尽蔵の『銀』と、東国・足利がアラスカから運んできた極寒の『毛皮』。
この東西の完璧な連携が生み出した「経済兵器」は、大砲の弾を一発も撃つことなく、スペイン無敵艦隊の出資者たちを次々と破産に追い込んでいった。
海へ出る前に、すでにスペインの戦費は内側から完全に干上がってしまったのである。
遠く離れた海の上、巨大なガレオン船の甲板で報告を聞いた細川勝元は、呆れたように笑った。
「……えげつないのう。富子様と薫子殿は、まこと鬼より恐ろしい算盤を弾きおるわ」
隣で腕を組む山名宗全も、深く頷いた。
「刃を交えずして、敵の兵糧を絶つ。これが新しい時代のいくさ、というわけじゃな」
老将たちの目に映る欧州の港町には、破産して首を吊る出資者たちの絶望の悲鳴が、幻聴のようにこだましていた。




