第71話:暗躍する明国スパイと「室町セキュリティの東西統合」
京都、室町第の奥深くに設けられた、日の光も入りにくい密室。
薫子――すでに三十代半ばを迎え、幕府の実質的な「大元締」としての凄みを身に纏った彼女は、上座で静かに茶を啜っていた。
彼女の目の前には、三人の男たちが平伏している。
一人は、深い緑の装束を纏った伊賀の頭領。
一人は、土埃の匂いを忍ばせた甲賀の頭領。
そしてもう一人は、遠く越後の地から呼び寄せられた、上杉家直属の諜報部隊「軒猿」のまとめ役であった。
「最近、堺や西国の湊に、明国あたりの商人の姿が急に増えておじゃるな」
薫子の静かな声が響くと、伊賀の頭領が深く頷いた。
「はっ。表向きは唐物を商う者らを装うとりますが……その実、我らの造船所や、筒(火縄銃)の工房の周りを嗅ぎ回る鼠が、ようけ紛れ込んどりますわ」
隣で、甲賀の頭領が言葉を継ぐ。
「すでに数名、怪しき動きをしとる者を、いつでも召し捕れるよう追い詰めておりまする。御方様、下知さえあれば即座に首を刎ねる覚悟にござりまする」
中世の常識であれば、技術を盗もうとする間者は即座に捕らえ、拷問の末に処刑するのが当然の処置であった。
しかし、薫子はゆっくりと首を横に振った。
「ならぬ。……殺してはならぬのじゃ」
三人の頭領は、わずかに眉をひそめた。
殺さずにどうするのか、という無言の問いが室内に満ちる。
「鼠を一匹殺したところで、明の国はまた新たな鼠を送り込んでくるだけのこと。それに、急に鼠が消えれば、彼らもこちらの警戒に気づき、より巧妙な手口を使うてくるようになるでおじゃる」
薫子は扇子を開き、口元を隠しながらふふっと笑った。
その瞳には、彼ら影の者たちすら戦慄させるほどの冷徹な理知が宿っていた。
「殺すのではない。泳がせるのじゃよ」
「泳がせる……と申されまするか?」
越後訛りを隠しきれない軒猿の男が、怪訝そうに尋ねた。
「そうでおじゃる。奴らが欲しがっておるのは、我らの誇る外洋船の図面や、最新の大砲の型でおじゃろう? ならば……それをくれてやればよいのじゃ」
三人の頭領が息を呑む音が聞こえた。
国家の最高機密を、みすみす敵に渡すというのか。
「もちろん、まことの品ではないぞ」
薫子は傍らに置かれた文箱から、和紙の束を取り出して畳の上に投げた。
「堺の腕利きの職人たちに描かせた、『偽の図面』でおじゃる」
図面には、一見すると極めて精巧な大砲の構造や、船の骨組みが描かれている。
しかし、現代の工学知識を持つ薫子が意図的に指示を出し、「致命的な強度の欠陥」や「実戦では絶対に使い物にならない寸法」が巧妙に仕込まれていた。
「この図面を、鼠たちが『苦労の末に盗み出した』と思い込むよう、わざと警備の隙を作って手に入れさせるのじゃ」
『これぞ近代的なカウンターインテリジェンスよ。偽情報を掴ませて、敵の技術開発に莫大な金と時間を無駄遣いさせる。本物の図面を探す手間すら諦めさせるのが、最強の防衛なのよ』
薫子は三人の頭領を見渡し、声のトーンを一段階上げた。
「今日から、お主たち伊賀・甲賀の西国組と、軒猿ら東国組を統合する。これより先、お主たちは暗殺者ではなく、日の本全土の技術と機密を守る『幕府直属保安局』じゃ」
東西の諜報機関が、歴史上初めて完全に一つに結びついた瞬間であった。
「明国の鼠たちを監視し、偽の図面を掴ませ、彼らが母国へそのガラクタを持ち帰るまでを完璧に見届けよ。……決して、こちらの意図を悟らせてはならぬぞ」
三人の頭領は、薫子の描いた途方もなく底意地の悪い、しかしこれ以上ないほどに確実な防衛策を完全に理解した。
彼らの背筋に、畏怖の念が走る。
血を流すよりも、残酷で恐ろしい戦い方がここにある。
「ははっ! 御方様の御意のままに……!」
三つの影は深く平伏し、音もなく密室から消え去った。
薫子は残った茶を飲み干し、薄暗い部屋の中で一人、世界地図が広げられた文机を見つめた。
『さあ、技術泥棒の皆さん。私たちが仕掛けた極上の偽物に、どれだけの国庫を溶かしてくれるかしらね……』




