第70話:教皇大勅書の書き換えと、冷戦の幕開け
バチカン宮殿の最奥。
教皇シクストゥス4世は、自らの机の上に積み上げられた書類と、それを裏書きする莫大な金額の約束手形、そして黄金の菊花紋が刻まれた異国の漆器を前に、重いため息をついていた。
「……ロレンツォめ。あの異教徒どもから、どれほどの黄金を受け取ったのだ。その上、教皇たるこの私に引けを取らぬ『古き神王』がいるなどという、ふざけた大義名分まで持ち込みおって……」
教皇は憎々しげに呟いたが、その手形を突っぱねることはできなかった。
大聖堂の建設、教皇領の維持、そして周辺諸国への政治的工作。
バチカンの権威を保つためには、メディチ家からの莫大な融資が絶対に不可欠だったのだ。
「教皇聖下。十字軍の編成には、天文学的な軍資金が必要です。しかし現在の諸国の国庫では、それを賄うことは到底不可能です」
傍らに控える側近の枢機卿が、メディチ家の意を汲んで進言する。
「かの西の帝国は、我々に武力で侵略を仕掛けてきたわけではございません。彼らと平和的に交易を行い、その莫大な富を教会の利益として吸収するほうが、神の御心にかなう現実的な道かと存じます。それに、かの国が主張する歴史と秩序を尊重する寛大さを示すのも、教皇聖下の威光を高める手立てとなりましょう」
神の御心という名目で、あからさまな金銭的妥協が語られる。
教皇は苦渋の決断を下し、震える手で羽根ペンを握った。
***
西暦一四八一年。
ローマ教皇より、全ヨーロッパに向けた新たな『教皇大勅書』が発布された。
『西の海より現れし帝国は、野蛮な異教徒にあらず。我らとは異なる古き神王の秩序の下、神の光によって導かれた文明国である。ゆえに、十字軍の号令は白紙撤回し、彼らとの平和的な交易を推奨する』
この一文が読み上げられた瞬間、ヨーロッパ諸国が一つにまとまろうとしていた熱狂は、冷や水を浴びせられたように消え失せた。
「馬鹿な……!悪魔を討つ神聖なる十字軍が、なぜ突然、平和な交易などという寝言にすり替わるのです!」
イベリア半島。
スペイン王国を統べるイサベル女王は、玉座から立ち上がり、手にした教皇の手紙を怒りに震えながら握り潰した。
「バチカンには、教皇の金庫番たる銀行家たちがついています。……かの巨大な帝国の使節が、歴史という盾を使い、彼らの喉元にどれほどの黄金を流し込んだのか、想像に難くありませんな」
隣に立つ夫のフェルナンド王が、奥歯をギリリと噛み締めながら、忌々しげに推論を口にした。
彼らは、突如西の海から現れた日本の巨大な船団によって、自らのプライドと海の覇権を粉々に砕かれた当事者である。
どれほど教皇が綺麗事で取り繕おうとも、あの帝国がもたらす致命的な脅威を、彼らは肌で感じ取っていた。
「神の正義すらも、異教徒の黄金の前に屈したというのですか……!」
イサベル女王の瞳には、狂信的な怒りと、決して屈しないという野心的な炎が燃え上がっていた。
「バチカンが金で籠絡されたというなら、我らは独自に動くまでです。カスティーリャとアラゴンの全財産を投じ、いや、借金をしてでも巨大な軍船を建造しなさい!大砲を鋳造し、兵を集めるのです!」
ヨーロッパの玄関口である彼らは、日本の富を奪い取り、自らの威厳を取り戻すために、国家の存亡を賭けた軍備拡張へと舵を切った。
後の世で「無敵艦隊」と呼ばれることになる大艦隊の胎動であった。
***
遥か東、日本の京都。
美しい庭園を望む室町第の縁側で、薫子と日野富子は、南蛮から届いた報告書に目を通していた。
「……どうやら、メディチ家の銭の力と帝の御印で、南蛮の親玉(教皇)が矛を収めたようやな」
富子は黄金の扇子をパチリと閉じ、満足げに微笑んだ。
「左様でおじゃりまする。これで南蛮の国々が『宗教』という大義名分で一つに固まり、我が国へ一斉に襲いかかってくるという最悪の事態は防げました」
薫子は冷たい茶を啜り、庭先の水獅子の音に耳を傾けた。
血を流すことなく、書類と金だけで巨大な戦争を未然に防ぐ。
それこそが、彼女が目指した「近代的な商社」としての勝利であった。
「そやけど、これで終わりっちゅうわけやないんやろ?」
富子が鋭い視線を向ける。
「はい。バチカンが折れても、我が国の圧倒的な富と武力を直接目の当たりにしたイベリアの王たちは、決して諦めませぬ」
「やろな。報告書にもある通り、奴らは今頃、南のイスラムの国といくさを続けながらも、死に物狂いで新しいいくさ船を造る気でおるはずや。……なんぞ、手を打たなあかんのやないか?」
富子の問いに、薫子は静かに首を振った。
「報告によれば、あのイベリアという地には、南蛮の教えとは全く異なる『イスラム』という教えを信じる国が南部に残っており、女王はそこと激しいいくさを続けているとのことでおじゃりまする」
「ほう? ならば話は早いやないか。そのイスラムの国とやらに、うちの鉄砲や大砲のからくりをこっそり売ってやればええ。奴ら同士で潰し合いをしてくれれば、うちの痛手はのうなるで?」
「……確かに。敵の敵に武器を売り、争いを長引かせて相手の国力を削る。商いの理屈としては、極めて合理的でおじゃりまする。……だが、それはやりませぬ」
「なんやて? なぜやらないんや」
富子が怪訝に眉をひそめると、薫子は真っ直ぐな瞳で答えを返した。
「我らは新たな富を創り出す商人であって、他国の血を売って銭を稼ぐ『死の商人』ではないからでおじゃりまする。人の命を駒のように扱う非人道的な真似をすれば、いずれ必ず、我が国の根幹が腐り落ちまする」
薫子の信念に満ちた言葉に、富子は一瞬呆気にとられた後、扇子で口元を隠してくつくつと笑い出した。
「ふん。相変わらず、変なところで頑固な綺麗事をぬかしよる」
薫子は静かに微笑んだ。単なる綺麗事だけで国を動かしているわけではない。彼女の頭の中には、極めて冷徹な「損益計算」が弾き出されていた。
『裏から武器を流して代理戦争を長引かせれば、数十年にわたって膨大な命が無為に消費され続けるわ。それならば、奴らが全リソースを注ぎ込んだ大艦隊を海上で迎え撃ち、我が国の圧倒的な暴力で一瞬にして粉砕した上で、敵兵の救助まで行う事で、二度と戦う気を起こさせないことこそが、結果的に人的コストを最小限に抑える最適解よ』
富子が扇子をピタリと止める。
「そやけど、向こうが何百といういくさ船を揃えて襲ってきたらどないするんや?」
「奴らが軍船を造るというなら、勝手に造らせておけばよいのでおじゃりまする。経済を無視した軍拡など、簡単に潰せるのでおじゃります」
薫子は、すでに堺の職人たちに開発を命じている『螺旋の溝』や『紙の薬莢』、そして東国からもたらされる巨大なエネルギーの絵図を思い浮かべた。
「万が一、全面対決となっても、力で迎え撃つのみでおじゃりまするよ」
十字軍という巨大な暴力は防いだが、それは真の平和の訪れではない。
互いが強大な武力を誇示し合うことで均衡を保つ時代。
日本とヨーロッパ列強による、地球規模の『冷戦』の幕が開いたのである。
戦国時代をスキップした日本は、その莫大な国力を以て、来たるべき決戦へと静かに駒を進め始めていた。




