第69話:ルネサンスの買収 〜メディチ家との暗躍〜
イベリア半島に残された日本の駐在使節団。
語学の天才たる若き禅僧と、室町商事の腕利きの商社マンたちは、港の酒場や商人たちの会話から、ただならぬ空気を察知していた。
薄暗い館の一室で、商社マンの一人が集めた情報を広げた。
「……どうやらこの半島の王たちは、南部に残る『イスラム』という全く別の教えを信じる国と、泥沼のいくさを続けているようですな。莫大な金と兵を注ぎ込んでおります」
「なるほど、道理で国全体が血生臭く、いくさの準備に慣れておるわけじゃ」
同行していた武官が腕を組みながら頷くと、禅僧が重々しい口調で致命的な報告を口にした。
「問題はそれだけではございません。……ローマの教皇が、我々を悪魔と断じ、全ヨーロッパに十字軍の結成を呼びかけておるようです。南のイスラムとのいくさなど即刻やめ、全軍で我らへ襲いかかれと」
「なんと……!十字架の御旗の下に、南蛮の全ての軍勢が束になって襲いかかってくるということか!」
同行していた武官の一人が、顔面を蒼白にさせた。
いかに日本の火器が優れ、ガレオン船が巨大であろうと、ヨーロッパ全土の国家を相手に全面戦争となれば、物量で押し潰されるのは明白である。
「落ち着かれよ。……こうなることは、薫子殿がとうの昔に予見しておりました」
商社マンの男は、懐から厳重に封印された書状と、小さな桐箱を取り出した。
京都を発つ際、幕府の実務トップである薫子から直接手渡された『特別外交手引書』と、天皇より特別に下賜された「菊花紋入りの最高級の漆器」である。
「薫子殿はこう記しておられます。『もし南蛮どもが宗教の狂気で団結しそうになったなら、神の威光より金の光を重んじる大金庫番を探し出せ。そして、我らにも教皇に決して引けを取らぬ、古き神王ありという証を見せつけよ』とな」
男はニヤリと不敵に笑い、地図の上の一つの都市を指差した。
「ローマ教皇の懐を握る、フィレンツェの銀行家……メディチ家じゃ。この連中の喉元に、極上の黄金と絶対的な権威の盾を流し込んでやるのじゃ」
***
数日後。
ルネサンス文化が華開く芸術と金融の都、フィレンツェ。
その中心にある豪奢なメディチ家の宮殿に、身を隠すようにして日本からの使者が招き入れられていた。
応接室で彼らを待ち受けていたのは、メディチ家当主、ロレンツォ・デ・メディチであった。
「……して、西の海より現れた異教徒の使者が、我が銀行に何の用かな?」
ロレンツォは警戒と好奇心の入り混じった目で、和装の男たちを値踏みした。
「ロレンツォ殿。単刀直入に申し上げましょう」
禅僧が流暢なラテン語で、静かに、しかし力強く語り始めた。
「現在、ローマ教皇聖下は我らに対して十字軍を提唱されております。……もし戦争になれば、メディチ家にも莫大な軍資金の負担がのしかかることでしょう」
ロレンツォの眉がピクリと動いた。
「戦争は血を流すだけでなく、富をも燃やし尽くします。我らはそのような不毛な浪費を望んではおりません」
商社マンが顎でしゃくると、随員が重厚な木箱を机の上に置いた。
蓋が開かれると、室内に暴力的なまでの黄金の輝きが満ちた。
中米から持ち込まれた、混じり気のない最高純度の金塊の山である。
「我らは、メディチ家と『専属の取引(総代理店契約)』を結びたいのです」
禅僧の言葉に、ロレンツォは息を呑んだ。
「我らが西の海から運んでくる絹、磁器、そして胡椒などの香辛料……。これら全ヨーロッパの市場に流通させる権利を、全てメディチ家に独占してお任せしたい」
それは、ヨーロッパの経済そのものを支配できるほどの、天文学的な価値を持つ提案であった。
「な、なんだと……!?我々に、その全ての権利を渡すと言うのか!?」
「ええ。この前金としての金塊と引き換えに、我らがお願いしたいのはただ一つ」
禅僧は深く頭を下げ、そして冷徹な眼差しでロレンツォを見据えた。
「ローマ教皇聖下の心を鎮め、十字軍の号令を取り下げていただきたいのです」
応接室は死のような静寂に包まれた。
全キリスト教世界の精神を司る教皇への信仰か、それともヨーロッパの富を独占する絶対的な権力か。
当時の彼らが認識する「ヨーロッパ」とは、教皇の権威が及ぶカトリック世界そのものであった。
東方のイスラム勢力の脅威に怯えるこの閉ざされた世界の全域へ、メディチ家の金融網を通じて日本の無尽蔵の物資を流し込む。
それは、地中海の既存の海洋覇者であるヴェネツィア共和国などを完全に干上がらせ、メディチ家を真の「経済の支配者」へと押し上げることを意味していた。
ロレンツォの脳内で、凄まじい勢いで利益と損失の計算が弾き出されていく。
「……いくら富があろうと、教皇聖下がそなたらを悪魔と宣告されたのだ。そのような輩と手を結べば、我が家も異端として糾弾される危険がある……。教皇を説得する『大義名分』がない」
ロレンツォが震える声で絞り出すと、禅僧は静かに首を振った。
「我らは決して、野蛮な無神論者や悪魔などではございません」
禅僧は懐から美しい和紙に記された書面を取り出し、さらに商社マンが恭しく先ほどの桐箱を開けた。
中から現れたのは、黄金の菊花紋が精緻に刻まれた、この世のものとは思えぬほど美しい漆黒の器であった。
「これは、我が国の神王の由緒正しき系譜と、古より続く神聖な統治についてラテン語で緻密に記した『国書』。そしてこの器に刻まれた菊花紋こそが、神王が名代と認めた者にのみ下賜される絶対的な『御印』にございます」
ロレンツォはその芸術的な器と、書面に記された遥か神代より続く歴史の記述に息を呑んだ。
「我が国は、この神王が精神を治め、将軍家が実務を治める極めて高度な文明国。決してそちらの教皇聖下に引けを取る歴史ではございません。……この事実を書面と品で教皇聖下にお伝えいただければ、我らを悪魔と呼ぶのは誤解であると、お分かりいただけるはず」
「なるほど……。教皇聖下にも引けを取らぬ精神の指導者がいる国であると。それならば、神学上の解釈として交渉の余地は十分にある……。大義名分にはなるだろう」
ロレンツォが呟くと、商社マンが通訳を介してニヤリと笑った。
「大義名分が立てば、あとはこれ(金塊)じゃ。金貨に異端も正当もございません。教皇様とて、豪華な聖堂を建て、軍隊を養うためには、メディチ家の金庫が必要不可欠なはず」
それは、ルネサンス期の腐敗したバチカンの急所を完璧に突き刺す、悪魔の囁きであった。
「教皇様に、たっぷりとお布施(献金)をして差し上げればよろしいのです。神の言葉を、金と権威で書き換えるのです」
ロレンツォは金塊の山と菊花紋の器から目を離せず、やがてその口元に、銀行家としての強欲な笑みが浮かんだ。
「……良いだろう。教皇聖下には、私から『神の真意』について、改めてご進言申し上げよう」
日本の巨大な富と、歴史という名の圧倒的な権威が、ヨーロッパの精神的支柱であった宗教の壁を内部から完全に崩壊させた瞬間であった。




