第68話:バチカンの激震 〜異教徒の帝国〜
ヨーロッパの精神的支柱であり、キリスト教世界の中心であるローマ、バチカン宮殿。
その奥深くにある荘厳な会議の間は、重苦しく、そしてひりつくような殺気と焦燥感に包まれていた。
玉座に座る教皇シクストゥス4世の顔には、隠しきれない怒りの皺が深く刻まれている。
彼の足元には、イベリア半島から駆けつけた使者たちが、青ざめた顔で平伏していた。
「……もう一度言ってみよ。その、ジパングとかいう地の果ての異教徒どもが、何をしたと言うのだ?」
教皇の低く冷酷な声が、石造りの広間に反響した。
「は、ははっ!奴らは山のように巨大な船団を率いてリスボンへ乗り込み、我らの軍船が届かぬ距離から、悪魔の雷(大砲)を放ちました」
使者は震える声で報告を続ける。
「そして、見たこともないほど純度の高い黄金と香辛料の山を突きつけ、我々の王を……言葉通り、金でねじ伏せたのでございます」
周囲を囲む枢機卿たちの間に、屈辱と驚愕のどよめきが走った。
神に選ばれた絶対的な文明国であるはずの自分たちが、西の果ての海から現れた得体の知れない異教徒によって、武力と経済力の両面で完全に圧倒されたというのだ。
「さらに許しがたいのは、奴らの傲慢なる振る舞いにございます」
使者は顔を上げ、憎悪に満ちた瞳で訴えた。
「奴らは、神の御言葉(聖書)を広めるための神聖なるからくりである『活版印刷機』を、異教徒には売らぬと拒んだ職人たちごと、莫大な黄金で無理やり買い上げていきました!」
「おのれ……ッ!!」
教皇は激昂し、玉座の肘掛けを強く叩いた。
「神聖なる技術を、異教徒の汚れた金で奪い取っただと!それは単なる略奪ではない。我が主に対する、絶対的な冒涜である!」
教皇の怒りに呼応するように、枢機卿たちも次々と声を上げた。
「教皇聖下!このままでは、ヨーロッパの富と技術が、あの黄金の帝国に骨の髄まで吸い尽くされてしまいます!」
「奴らは神の秩序を破壊する悪魔です!放っておけば、いずれ我らの信仰すらも金で汚されることでしょう!」
バチカンにとって、未知の海から現れた帝国の存在は単なる軍事的な脅威ではなかった。
絶対的な富と文明を持ち、キリスト教の教えを全く介さない異質な巨大帝国の出現は、ヨーロッパを支配してきた「宗教による精神的権威」そのものを根本から揺るがす危機だったのだ。
教皇シクストゥス4世はゆっくりと立ち上がり、両手を高く天へ掲げた。
「迷える子羊たちよ、聞くが良い!西の海より現れし異教徒どもは、平和な商人を装った悪魔の使いである!」
その声には、ヨーロッパ全土を熱狂させるだけの恐るべき威厳と、権力者の執念が込められていた。
「我らは神の御名の下に団結せねばならぬ!フランスも、神聖ローマ帝国も、過去のいさかいを捨てよ!」
教皇は、キリスト教世界が持つ最大の、そして最も暴力的なカードを切った。
「イベリアの王たちよ!南に蔓延るイスラムの残党との小競り合いなど、今は捨て置け!この未曾有の危機にあっては、全ヨーロッパの軍船を集め、無敵の大艦隊を組織するのだ!」
広間が、割れんばかりの狂気的な歓声に包まれた。
「あの金色の悪魔どもを沈め、奴らの汚れた富を神の下へ奪い返せ!これは聖戦(十字軍)である!!」
自分たちの無力さと貧しさを突きつけられ、プライドを粉砕されたヨーロッパの王侯貴族たちにとって、「宗教的な大義名分」は最も心地よい麻薬であった。
相手が悪魔であるならば、どれだけ残酷な略奪を行おうとも、それは神に祝福された正義となるからだ。
「神の御加護を!!異教徒に死を!!」
バチカン宮殿から放たれた狂熱の波は、瞬く間にヨーロッパ全土へと伝播していった。
これまで互いに血を流し合っていた諸国が、異教徒の富を奪い取るという一つの強欲な目的のために、十字架の御旗の下へ恐るべき速度で結集していく。
遥か彼方の黄金の帝国に向け、全ヨーロッパの総力を挙げた「十字軍」という名の、巨大な暴力の嵐が吹き荒れようとしていた。
日本の歴史上かつてない、世界規模の防衛戦の幕が開いたのである。




