第66話:冷害を笑う民と神代からの血筋
その年、日本の気候は狂っていた。
夏になっても太陽は分厚い雲に隠れ、長雨と冷たい風が吹き荒れる「冷害」が列島を襲っていた。
史実において、この時期に起きた気象異常は『寛正の大飢饉』を引き起こした。
京の都には全国から難民が押し寄せ、賀茂川は餓死者の死体で埋め尽され、数え切れないほどの命が失われたはずの、地獄の季節である。
だが、現在の京都の光景は、その悲惨な歴史とは全く異なっていた。
「さあさあ、熱いうちに食べよし! 並べば誰にでも当たるさかいな!」
洛外に設けられた巨大な炊き出しの陣屋で、威勢の良い女将の声が響き渡っている。
何十個と並べられた巨大な鉄鍋からは、もうもうと湯気が上がり、食欲をそそる味噌の香りが漂っていた。
「いやあ、助かるわぁ。今年の田んぼは冷害で全滅かと思うたけど、これがあるさかいに腹ァ空かさずに済むわい」
「ほんまになぁ。幕府様には足向けて寝られへんわ」
お椀を受け取った農民や町衆たちは、満足げに笑顔を浮かべ、ハフハフと熱い汁をすすっている。
彼らの椀に盛られているのは、米ではない。
ゴロゴロと大ぶりに切られた『ジャガイモ』と、黄色く輝く『トウモロコシ』の粒がたっぷり入った、栄養満点の根菜汁であった。
冷たい雨風にも負けず、痩せた土地でも異常な生命力で育つ新大陸の作物が、日本の歴史から『飢え』という概念を完全に駆逐していたのだ。
***
その数日後。京都の中心に位置する御所。
将軍・足利義政と正室の日野富子は、帝に謁見していた。 史実では後の戦乱で御所が焼け、帝が室町第へ避難する事態となるが、この平和な世界においては、平穏無事に御所におわす。
「……まこと、大儀であった。諸国を襲うた冷害にも関わらず、京の都では一人の餓死者も出なかったと聞いておる。そなたらの尽力、朕は心より嬉しく思うぞ」
御簾の向こうから、安堵に満ちた帝の御声が響いた。
「身に余るお言葉、恐悦至極に存じまする」
義政と富子は深く平伏した。
「帝。実は本日は、もう一つ、折り入ってお願いの儀がござりまする」
富子が顔を上げ、凛とした声で切り出した。
薫子や身内の前で使う「京ことば」を封印し、完璧で流麗な公家言葉を操っている。
「おお、富子。申してみよ」
「現在、我が幕府の船団は、はるか西の果て、『南蛮』と呼ばれる異国との商いを進めておりまする。しかし、彼らは独自の神を信じ、我らを野蛮な国と侮るやもしれませぬ」
富子は言葉を選ぶように、しかし力強く続けた。
「真の意味で彼らと対等以上の外交を結び、我が国が優位に立つためには、武力や銭だけでなく、彼らを圧倒する『歴史と伝統の盾』が必要にござりまする」
富子は居住まいを正し、帝の御簾を見据えた。
「どうか、異国との外交において、朝廷の『御印(菊花紋)』の威光を用いらせてはいただけませぬでしょうか」
「……なるほど。朕の威光を盾とし、異国との外交において我が国を優位に立たせるというわけか」
「左様にござりまする。我が国の使節が帝の御印を携えることで、南蛮の王侯貴族に『我らは神代より続く権威を戴く文明国である』と知らしめ、彼らの驕りを退けるのでござりまする。未知なる異国の教皇や王侯貴族がどれほどの歴史を持っていようと、決して引けを取ることはござりませぬ」
帝は静かに頷いた気配を見せた。
富子はさらに言葉を重ねる。
「そして、その御印を刻んだ品は、決して商いの場には出回らせませぬ。銭を積めば買える代物ではなく、国と国との交わりにおける『至高の贈答品』としてのみ扱うことで、異国の者たちに『黄金よりも重き神聖なる権威』として、さらなる畏敬の念を抱かせるのでござりまする」
「……なるほど。朕の威光を単なる商いの道具にするのではなく、国の品格を示すために用いるというわけか。良き心がけじゃ。民を飢えから救ったそなたらの頼みである。この国の誉れとなるのなら、朕の御印、存分に用いるが良い」
「ははっ! ありがたき幸せ!」
富子の隣で平伏していた義政も、嬉しそうに身を乗り出した。
「なれば、その御印を刻む品は、この義政にお任せくだされ! 我国が誇る最高級の蒔絵や茶道具に、帝の御印を黄金で精緻に刻み込み、異国の王侯どもが平伏するような極上の『国宝』に仕立て上げてみせましょうぞ!」
史実では政治を放棄した将軍が、文化芸術の最高責任者として目を輝かせている。
富子は夫の頼もしい姿に微かに口角を上げ、そして「これで外交を制する最高の切り札が手に入った」と確信していた。
***
同じ頃、室町第の執務室では、薫子が机の上に置かれた奇妙なものを顔をしかめて見つめていた。
御所から戻ってきた富子が、その隣に立つ。
真っ黒な石の塊と、壺に入ったドロドロの黒い液体である。
「……なんやの、この鼻をつく臭い石と泥水は。えらい下品な匂いやな」
富子は黄金の扇子で鼻を覆いながら、いつもの調子に戻って怪訝な顔をした。
「富子様。これは常陸の国(関東)で見つけた『燃える石』と、越後の国で湧き出ている『燃ゆる水(臭水)』でおじゃりまする」
薫子は黒い石(石炭)を手に取り、真剣な眼差しで語った。
「飢えがなくなり、人が爆発的に増え、水車と巨大な高炉が昼夜を問わず動き続けておりまする。その結果、何が起きるか」
薫子は窓の外、遠くに見える京都周辺の山々を指差した。
「……山が禿げてきておりまする。鉄を溶かし、ガラスを作り、暖をとるための『木』と『炭』が、圧倒的に足りなくなっているのでおじゃりまする」
富子はハッとして、扇子を下ろした。
「そないなこと……考えたこともなかったわ。たしかに、最近は炭の値段がえらい跳ね上がってるな」
「もちろんどの山にも『木を一本切れば、苗を二本植えよ』と厳命し、大がかりな植林を急がせてはおじゃりまする」
薫子は扇子で外の山々を示しつつ、重いため息をついた。
「……だが、木が育つには何十年もかかり、今の我が国の凄まじい発展速度には、木の成長が到底追いつかぬのでおじゃります。ゆえに、山の木が尽きる前に、この地中に眠る無尽蔵の『黒い火』を掘り出し、燃やす手立てを整えねばならんのでおじゃりまする」
人口増加と産業発展がもたらす「エネルギー枯渇問題」。
薫子はすでにはるか先の未来を見据え、森林保護と並行して、石炭と石油を内政の根幹に据えるための研究を始めようとしていた。
「幸いなことに、北方の海を制した足利殿や上杉殿が、東国の湊から上方へ至る強固な『海運の道(物流網)』を整備してくれておりまする。この東国の無尽蔵の資源を、西の工業地帯へ一気に運び込むのでおじゃりまする」
「なるほどな。南蛮へ向かった西国の連中の留守を、東国の連中が縁の下の力持ちとして支えてくれるというわけやな」
富子は扇子で口元を隠し、満足げに微笑んだ。
「そやけど、いくらなんでも臭すぎるわ」
「そこは堺の職人たちと知恵を絞りまする。……この国の火を絶やさぬこと、それが今の私の最大の懸案……」
薫子が言葉を区切った、まさにその時。
バタバタと慌ただしい足音を立てて、幕府の伝令が執務室へ駆け込んできた。
「申し上げまする! 細川提督の船団より、快速の連絡船が帰還いたしました。予想通り、無事に南蛮の地へ到着したとのことにございまする!」
伝令は息を切らしながら、興奮した面持ちで報告した。
「おお! 勝元殿らが無事に南蛮へ着きおったか! して、何か珍しいものは持ち帰ったか?」
富子が身を乗り出して尋ねると、伝令は不思議そうな顔で答えた。
「ははっ! 提督からの文によりますと、『文字を無限に増やす、魔法のからくり』を買い上げてきたとのことにございます!」
「文字を……無限に増やすからくり……?」
富子が首を傾げる中、薫子の瞳は驚愕に見開かれ、手に持っていた石炭をポロリと落とした。
「まさか……活字を並べて刷るからくりでおじゃりまするか!?」
薫子は思わず大きな声を上げ、両手で顔を覆った。
「……どないしたんや、薫子。その『からくり』とは、そないに凄いんか?」
「凄いどころの話ではおじゃりませぬ……! 勝元殿……! お主という男は、なんという恐ろしい商人の嗅覚を持っておるのじゃ!」
薫子は震える声で呟いた。
「私は今、鉄やガラスを作るための『物理的な火』のことで頭がいっぱいでおじゃりました。……だが、あの男は自らの目で南蛮を歩き、全く別の、しかし最も恐ろしい力を見つけ出してきたのでおじゃります!」
「恐ろしい力?」
「はい。そのからくりさえあれば、この何百万という民草に、幕府の掟を、新しい知識を、瞬く間に配ることができる。……それは『人の心を動かすための燃料』なのでおじゃりまする!」
薫子は、自らが指示したわけでもないのに、情報化社会の扉を開く『究極の内政兵器』を自力で引き当ててきた細川勝元という男の成長に、心の底から戦慄していた。
「……面白くなってきおったわ。我が室町商事の幹部たちは、もはや私の思い描く絵図すら軽々と超えてきおる!」
富子は顔を上げ、かつてないほど野心的な笑顔を浮かべた。
飢えを克服し、無限の労働力と新たなエネルギー(石炭)を手に入れようとする超大国・日本。
そこに、ヨーロッパから「情報革命の種」が蒔かれようとしていた。
戦国時代をスキップした極東の島国は、武将たちが自ら近代国家の扉をこじ開けながら、猛烈な勢いで歴史の階段を駆け上がり始めたのである。




