第57話:次なる野望、「パナマ地峡」の発見
新大陸からもたらされた「未知の作物」が、日本中に熱狂を巻き起こしている最中。
京都・室町第の奥深くで、薫子は広大な世界地図を広げていた。
同席している日野富子や幕府の重鎮たちは、この巨大な新天地の利権をどう切り分けるかで議論を白熱させている。
彼らの目は、持ち帰られた黄金や作物の莫大な価値に釘付けになっていた。
しかし、薫子の視線は、その新大陸の「陸地」には向けられていなかった。
彼女の目は、新大陸の沿岸をずうっと南へなぞり、ある一点でピタリと止まっていた。
「薫子。なんや、まだその地図に不満でもおすのか?」
富子が煙管の煙をくゆらせながら、気怠げに問う。
「富子様。この新大陸は、確かに莫大な富をもたらす宝の山でおじゃります。なれど、これは同時に……巨大な『壁』でもおじゃるのどす」
「壁、やと?」
薫子は地図の空白部分を扇子で指し示した。
「地球が丸いという理屈から考えれば、この大陸のさらに向こう側には、おそらく別の巨大な海が広がっているはずでおじゃる。そしてその海こそが、南蛮の連中がうごめく本丸へと繋がっている公算が大きうございまする」
諸将が息を呑む。
彼らは太平洋を渡るだけでも限界ギリギリだったというのに、幕府の実務トップであるこの姫君は、すでにその先の海を見据えているのだ。
細川勝元がいぶかしげに口を開く。
「なれど薫子殿。これまでの報告によれば、この新大陸は北も南もどこまで続いているか見当もつかぬほど広大でおじゃる。船を担いで山を越えるわけにもいかぬ。どうやってその先の海へ抜けるとおっしゃるのか」
薫子は小さく微笑むと、広大な世界地図の別の一部を指し示した。
その地図は、ただ買い集められたような生易しいものではなかった。
薫子が日明貿易のコネと、室町ファンドの莫大な賄賂を惜しみなく使い、大内家に命じて明国の宮廷書庫から写し取らせた「鄭和の南海遠征」の極秘航海記録。
そして、琉球や堺の商人を介し、東南アジアのマラッカに集うイスラム商人から、巨額の黄金と引き換えに買い取らせた西方の実用海図。
それらの最高機密を統合させ、絵師に引かせた幕府の特製「世界図」であった。
諸将は、その精巧極まる地図と、それを用意した幕府の底知れぬ情報網に背筋を凍らせる。
「勝元様。この地図の、ユーラシアとアフリカの繋ぎ目……『スエズ』と呼ばれる場所をご覧なはれ。そして、明国の南にある『マレー』の地も」
武将たちが身を乗り出して地図を覗き込む。
「巨大な陸と陸が連なる場所には、必ず首の皮一枚のように細くなる『結び目』が存在しておりまする」
薫子の言葉に、諸将はハッと息を呑んだ。
確かに、広大な陸地同士が連なり合う場所は、地図上で見るとどこも不自然なほど細くくびれて描かれている。
「この新大陸もまた、南北に果てしなく巨大な陸地が連なっているように見受けられまする。ならば、地形の法則として、その中腹あたりに必ず『結び目』となる極めて細い陸地……『くびれ』が存在するはずでおじゃる」
薫子の目は、底知れぬ野心の熱を帯びていた。
「もしこれが巨大な島であれば、南へ下ればいずれ最南端へ行き着き、回り込めるはず。もし巨大な大陸が連なっているのなら、必ずどこかに『くびれ』がある。故に、次なる使命を下しまする」
薫子は武将たちを真っ直ぐに見据えた。
「新大陸の沿岸を南へ下りなはれ。そこを見つけ出し、向こう側へ抜ける道筋を作れば……我らは、いずこの大国よりも早く、新たなる海をも支配できる可能性が極めて高くなりましょうぞ」
単なる予言や思いつきではない、地理的な経験則と、莫大な資本力で集めた情報から導き出された完璧な条件分岐の推測。
その圧倒的な知の統合力に、歴戦の武将たちも平伏し、納得するしかなかった。
***
むせ返るような熱気と、極彩色の鳥たちのけたたましい鳴き声。
大内政弘と斯波義廉の率いる共同探検隊は、薫子の命を受け、新大陸の中米沿岸部をひたすらに南下していた。
未知の海域を、手探りで進む過酷な航海である。
複雑な入り江や浅瀬に阻まれ、時には座礁の危機を乗り越えながら、彼らは「最も陸地が細くなる場所」を探し求めていた。
「くそっ!どこまで行ってもジャングルばかりじゃねえか!薫子殿のおっしゃる『くびれ』とやらは、本当に存在するんじゃろうな!」
甲板で汗を拭いながら、大内軍の将が毒づく。
連日の酷暑と、得体の知れない熱帯の病の恐怖が、乗組員たちの体力を確実に削っていた。
「泣き言を抜かすな!あの薫子殿の読みが外れたためしがあるか!ここで手柄を立てねば、細川や山名の連中に一生頭が上がらんようになるぞ!」
斯波軍の将が怒鳴りつける。
国内の政争で蚊帳の外に置かれかけていた彼らにとって、この探検は幕府内での地位を確固たるものにするための、絶対に負けられない戦いだったのだ。
やがて、彼らはとある巨大な入り江に到達した。
そこは、これまでの鬱蒼とした沿岸部とは少し様相が異なっていた。
現地の先住民たちとの粘り強い交易の末、彼らはある重要な情報を引き出すことに成功した。
言葉は完全には通じなくとも、美しいガラス玉や絹織物を手渡しながら砂に絵を描き、根気よく尋ねる。
すると、先住民の代表は、背後の険しい山々を指差し、その向こう側、太陽が昇る方角に「もう一つの巨大な水溜まり(海)」があることを身振り手振りで示してくれたのだ。
「間違いない……。ここじゃ。ここが大陸の『くびれ』じゃ!」
大内と斯波の決断は早かった。
彼らは船を入り江に停泊させ、重武装の精鋭部隊を編成すると、先住民を案内人として未開のジャングルへと足を踏み入れた。
道なき道を鉈で切り開き、毒蛇や吸血昆虫の襲撃を退けながらの過酷な行軍。
鎧の下は汗で泥のようになり、息をするのも苦しいほどの湿度が武士たちの体力を奪う。
過酷な大自然が、彼らの心を幾度もへし折ろうとする。
しかし、彼らの目にはギラギラとした野心が燃え盛っていた。
ここで歩みを止めれば、新たなる海を支配する栄光は手に入らない。
大地の結び目を、自らの足で越えるのだ。
三日三晩、鬱蒼とした緑の地獄を歩き続けた、その時だった。
「殿!前方が……開けておりまする!」
先頭を進んでいた足軽の、ひび割れた声が響いた。
彼らが急斜面を這い上がり、密集した木々をかき分けて丘の頂上に出た瞬間。
生暖かい風が、彼らの泥だらけの顔を撫でた。
「おお……おおおお……!!」
大内軍の家臣が、槍を取り落としてその場にへたり込んだ。
眼下に広がっていたのは、見渡す限りの群青。
これまで渡ってきた太平洋の荒々しい波とは違う、青く澄み切った、どこまでも穏やかな海。
水平線は弧を描き、果てしなく東へと続いている。
誰も見たことのない、もう一つの大洋であった。
「やりおった……!薫子殿の言う通りじゃ!陸地の向こう側に、新たな海が広がっておるぞ!!」
「天の加護じゃ!我らは、大地の結び目を突き抜けたんじゃあ!」
疲れ果てていたはずの武士や水夫たちが、次々と丘に駆け上がり、歓喜の涙を流して抱き合った。
鎧を打ち鳴らし、狂ったように叫び声を上げる者もいる。
彼らは今、ヨーロッパのいかなる探検家よりも早く、アメリカ大陸の最も細い部分を横断し、大西洋側の海をその目に焼き付けたのだ。
ユーラシア大陸の極東に位置する島国の武士たちが、自らの足で地球の裏側の地理的要衝へと到達した、歴史的な瞬間であった。
山頂に立つ大内の将は、震える手で『日章二引両旗』を高く掲げ、海風にはためかせた。
その旗の向こう側には、まだ見ぬ未知の海が広がっている。
彼らの心に、さらなる未知への欲望と、覇者としての自負が深く刻み込まれていった。




