第55話:究極の物々交換と、「検疫」の掟
抜けるような青空と、波の静かなエメラルドグリーンの浅瀬。
未知の大陸における最初のファーストコンタクトは、一滴の血も流れることなく、静かなる熱狂の中で進んでいた。
七色に輝くガラスの器と、太陽の光を吸い込んだような無垢の黄金の首飾り。
言葉の通じない両者が、互いの宝物を震える手で交換した瞬間、目に見えない強固な橋が架けられたのだ。
「なんちゅうこっちゃ……。あの透明な器一つで、これほどの金と交換できるとは……!」
血気盛んだった足軽の一人が、手の中にあるずっしりと重い黄金の腕輪を見つめ、呆然と呟いた。
彼らが持ち込んだ堺の鉄製農具や、京都特区の美しい陶磁器、そして鮮やかな絹織物は、先住民たちにとって魔法の品も同然だった。
日本の武士たちにとってありふれた品々が、次々と莫大な金銀、そして見たこともない極彩色の石や香辛料へと変わっていく。
先住民たちは、未知の来訪者が略奪者ではなく、素晴らしい品をもたらす交易相手であると理解し、村の奥から次々と財宝を運び出してきた。
細川勝元は、砂浜に作られた仮設の交易所の中心で、次々と積み上がっていく黄金の山を見つめながら、武者震いを堪えていた。
ただ刀を振り回し、他人の領地を奪い合っていたかつての自分が、いかに狭い世界で生きていたかを思い知らされる。
海を越え、異なる文明と手を結ぶだけで、国一つを買えるほどの富が転がり込んでくるのだ。
これこそが、薫子が教え込んだ「商い」という名の、最も洗練された戦い方だった。
「殿!大漁ですたい!これで借金もきれいさっぱり返せますぞ!今夜は現地の者たちと大いに酒を飲み、女も抱いて、派手に宴をやりましょうや!」
興奮冷めやらぬ九州出身の足軽頭が、満面の笑みで勝元にすり寄ってくる。
長い航海を耐え抜き、これほどの成果を上げたのだ。
未知の島での開放的な夜を期待するのは、荒くれ者の船乗りとして当然の欲求であった。
だが、勝元の表情は一瞬にして凍りつき、冷酷な提督の顔へと変わった。
「馬鹿者が。誰が宴など許した」
「え……?殿?」
勝元は足軽頭を突き飛ばすと、周囲で浮かれている水夫たち全員に聞こえるよう、腹の底から大音声を張り上げた。
「浮かれるな!まだ商いは終わっておらん!これより、姫様から厳命された『絶対の掟』を執り行う!」
勝元の声に呼応するように、甲冑を着込んだ数人の屈強な武官と、白装束に身を包んだ船医たちが、物々しい雰囲気で砂浜に歩み出てきた。
彼らの手には、強い度数の焼酎が入った壺と、巨大な鉄鍋が握られている。
***
出航前。
京都の室町第の奥深くで、薫子は勝元たち船団の幹部を集め、異様なほど真剣な顔で語りかけていた。
『ええですか、勝元様。未知の地には、未知の富と共に、恐ろしい「見えざる邪気」が潜んでおりまする』
『見えざる邪気、でおじゃるか?』
『そうどす。こちらの人間が免疫を持たない、異界の病の種でおじゃる。もし、現地の者と肌を重ねたり、不衛生なまま船に戻ったりすれば、その邪気はたちまち船団全体に広がり、皆殺しにされまする』
薫子の瞳には、前世の記憶に刻まれた「パンデミック」という惨劇への深い恐怖が宿っていた。
コロンブス以降の史実において、ヨーロッパ人が持ち込んだ天然痘などの疫病は、新大陸の先住民の九割を死滅させ、文明を完全に崩壊させた。
逆に、新大陸から持ち帰られた梅毒などの未知の病は、ヨーロッパやアジアを瞬く間に席巻し、無数の命を奪ったのだ。
中世の人間に、細菌やウイルスの概念を説明しても理解できない。
だからこそ、薫子はそれを「呪い」や「邪気」という言葉に置き換え、物理的な「検疫」を宗教的な掟として徹底させることにしたのだ。
『交易が終われば、現地の者との交わりは一切禁じまする。夜這いなど言語道断!少しでも肌を触れ合わせたなら、強い酒で念入りに手と体を洗い流しなはれ』
『酒で体を洗うと申されるか?もったいない……』
『命より惜しい酒がおじゃりますか!さらに、異国で着た衣はすべて熱湯で煮沸し、邪気を祓うのどす。もしこの掟を破る者がおれば……』
薫子は、冷ややかな視線を幹部たちに向けた。
『その者は船に乗る資格をおまへん。日本の土を二度と踏めぬよう、海に放り込みなはれ』
***
「……というわけじゃ!聞いたな、貴様ら!」
勝元が太刀の柄を叩きながら凄むと、水夫たちは青ざめて後ずさった。
「いいか!現地の女に手を出した者は、その場で斬り捨てる!交易の品を受け取った者は、直ちに船医の元へ行き、焼酎で手を洗え!着ていた服はすべてこの大鍋で煮沸しろ!」
「そ、そんな殺生な……!ちったぁ息抜きさせてくだせえ!」
「黙れ!お前らは室町商事の社員ぞ!姫様の掟を破り、見えざる邪気を都へ持ち込むような真似をすれば、一族郎党すべて借金地獄に叩き込まれると思え!」
「借金地獄」という言葉は、いかなる病の恐怖よりも生々しく、室町時代の男たちの心をへし折った。
「ひぃぃっ!わ、わかりましたたい!すぐ酒で手を洗いますけん!」
水夫たちは慌てて船医の元へ並び、強い酒で何度も手を擦り洗いし、服を脱いで熱湯の入った大鍋へと放り込み始めた。
それを見た先住民たちは、日本人が奇妙な儀式(お清め)を始めたのだと思い、少し離れた場所から畏敬の念を持って見つめている。
こうして、武士の徹底した規律と、借金という強烈な経済的圧力によって、世界史において最も重要な「検疫」の壁が機能した。
史実のコンキスタドールたちのような、欲望に任せた略奪や強姦による疫病の蔓延は、未然に防がれたのだ。
彼らは先住民の社会を破壊することなく、あくまで対等な「巨大な多国籍商社」として、新大陸との健全な交易関係を築き上げたのである。
太陽が沈みゆく中、厳しい検疫を終えた水夫たちが、莫大な富を積んだガレオン船へと戻っていく。
船上から見下ろす新大陸の緑は、血で汚れることなく、美しいまま彼らを見送っていた。




