第50話:次なる野望 〜真っ白な東の海図〜
一四七〇年代初頭。
京都・室町第の庭園は、季節を問わず咲き誇る異国の花々と、澄み切った水音を響かせる豪奢な噴水で彩られていた。
その中心で、美しい絹の打ち掛けを羽織った薫子が、静かに茶を啜っている。
実家の弱小武家で帳簿を書き換えていたあの幼い少女は、今や二十四歳。
彼女の知性と美貌は爛漫と咲き誇り、大御台所・日野富子の絶大な信任を受ける「幕府の金庫番」として、底知れぬ威圧感を漂わせていた。
国内の経済基盤は特許制度と産業革命によって盤石となり、インフレーションも完全に抑制されている。
そして海外に目を向ければ、細川、山名、大内、畠山、斯波といった提督たちが東南アジアから明国に至る海域で、さらには足利成氏や上杉家といった関東勢が北方の海域で、それぞれ圧倒的な優位性を確立していた。
室町幕府は、文字通り「黄金の帝国」へと変貌を遂げたのである。
しかし。
『……利益率は依然として高い。でも、成長曲線が明らかに鈍化してきているわ。南も西も飽和しつつあるし、北の毛皮商い(関東勢の利権)に手を出すわけにもいかないしね……』
薫子は、各陣営から上がってきた交易の帳簿を眺めながら、内心で舌打ちをした。
莫大な富をもたらしたアジア交易だが、限られた市場に複数の巨大な日本船団がひしめき合えば、当然ながら現地での価格競争(値崩れ)が起きる。
史実の戦国武将たちが国内の領土争いで経験したような「閉塞感」が、今度はアジアの海の上で彼らを包み込み始めていた。
『このままじゃ、武将たちの有り余る闘争心が、再び身内での小競り合い(パイの奪い合い)に向かいかねないわ。……富子様に相談して、次なる「最高の餌」を与えなきゃね』
薫子は立ち上がり、奥の広間へと向かった。
***
そこには、富子の呼び出しを受けた大名たちが、車座になって顔を突き合わせていた。
南海・明国航路総提督の細川勝元と山名宗全。そして先発組として海に出ている大内政弘、畠山義就、斯波義廉の五人である。
「大内殿。この前のルソンでの買い付け、少々えげつなすぎはしませぬか? 我ら細川の商いまで食い荒らされては困るのだが」
勝元が、扇子を弄りながら冷ややかに牽制する。
「ふん。商いは早い者勝ちであろう。モタモタしておる細川殿が悪いだけのこと。……それにしても、明国の生糸もこのところ仕入れ値が上がってきておる。利幅が減って面白うないわ」
大内政弘が不満げにぼやく。
「かといって、北方の海は足利成氏や上杉の領分じゃ。あやつらの毛皮や佐渡の金塊の商いに手を出せば、それこそ要らぬ火種を生むことになろうて」
宗全の言葉に、皆が忌々しそうに黙り込む。
彼らの目には、かつて未知の海へ漕ぎ出した時のギラギラとした野心が薄れ、巨大商社の総帥としての「飽き」と「現状維持への疲弊」が浮かんでいた。
そこへ、広間の襖が静かに開き、上段の間に大御台所・日野富子が姿を現した。
その斜め後ろには、分厚い帳簿を抱えた薫子が影のように付き従っている。
「大御台所様のお成りであーる!」
奉行の声が響くと、武将たちは一斉に姿勢を正し、深く頭を下げた。
彼らの莫大な富も、巨大なガレオン船も、すべてはこの美しき大御台所と幕府の掌の上(リース契約)にあることを、彼らは骨の髄まで理解している。
富子は気怠げに上座へ腰を下ろすと、煙管をふかしながら武将たちを見下ろした。
「皆の者、日々の商い、まことに大儀やな。……薫子、あれを広げえ」
「はっ」
富子の下知を受け、薫子は一段下がった場所に進み出た。
彼女自身に将軍家のような権威はないが、富子の名代として立つこの女が「最も危険な幕府の頭脳」であることを、武将たちは薄々勘付いていた。
薫子は背後の役人に命じて、広間の中央に一枚の巨大な羊皮紙を広げさせた。
それは、最新の航海記録を元に作成された「世界地図」であった。
しかし、その地図の右半分――日本のさらに東側は、何の島も大陸も描かれていない、ただの「真っ白な余白」となっている。
「皆様方が制覇されたのは、この地図の西と南、そして北の一部に過ぎませぬ」
薫子は、自らの手で持った指示棒で、地図の右側、何もない真っ白な大洋(太平洋)を指し示した。
「太陽の昇る方角。この遙か東の大洋を真っ直ぐに進み続ければ、一体どこへ辿り着くか、お分かりでおじゃるか?」
武将たちは顔を見合わせ、首を傾げる。
「異国の商人どもの言い伝えや、天文学を解する者によれば……この星は丸いとのことでおじゃりまする。ならば、このまま東へ真っ直ぐ進み続ければ、噂に名高い『黄金郷』にぶつかるか、あるいは南蛮人どもの住まう国の裏庭へ、直接辿り着くやもしれませぬ」
「南蛮の……裏庭じゃと……?」
平伏したまま、勝元が顔を上げて身を乗り出す。
「左様。あれだけ広大な未知の大洋ならば、明国の絹も、南洋の香辛料も比べ物にならぬほどの、無尽蔵の金銀財宝や未知の産物が眠っているやもしれませぬな」
薫子の静かな、しかし強烈に欲を煽る声が、広間に響き渡る。
「これより先は、波荒ぶる未踏の海。生きて帰れる保証はどこにもおじゃりませぬ。なれど……富子様はこう仰っておいでです。一番乗りでその未知なる海を渡り、新たな大地に日の本の旗を立てた者には、幕府より『新大陸総督』としての特権、ならびに『二十年間』に渡る、その地で得た富の完全なる独占を許そう、と」
武将たちの顔つきが、一瞬にして変わった。
閉塞感に苛立っていた彼らの心臓が、早鐘のように打ち始める。
「新大陸総督……!」
「しかも、二十年もの間、未知の富の独占じゃと……!?」
先行組である大内や畠山、斯波らは、さらなる莫大な富と名誉を求めて息を呑む。
そして何より、後発の借金王である細川や山名にとって、これは「一撃で借金を完済し、ライバルを完全に出し抜く究極の逆転ホームラン」であった。
各陣営の経済状況は違えど、武士の魂の奥底に眠る「一番槍の誉れ」と、誰も見たことのない未知の領域を征服し、莫大な富を長期間独占するという「果てしない野望」が、一様に激しく刺激されたのだ。
「なれど……」
薫子は、息を荒くする武将たちを見回し、さらに言葉を重ねた。
「堺や西国から直接未知の大洋へ漕ぎ出すのは、いささか効率が悪うおじゃります。この未曾有の航海の成功率を最も高くするには、日の本の東の果て……関東の湊に立ち寄り、船倉を真水と食料で極限まで満たしてから飛び出すのが理にかなっておりまする」
武将たちがハッとして顔を上げる。
「ゆえに、北方の足利殿や上杉殿には、すでに富子様より密書を送っておじゃる。彼らの湊を新大陸への『最終補給基地(東の玄関口)』として幕府が投資し、莫大な利を落とすことで、この国策へ完全に組み込みまする。……もちろん、あやつら自身がこの新大陸の競争に加わることも許しておじゃるよ」
「なんと……! あの関東の猛者どもも、この新大陸争奪戦に加わるというのか!」
勝元が忌々しそうに、しかし強烈な闘争心を燃やして叫んだ。
幕府の計算し尽くされた兵站の合理性と、決して関東勢に後れを取るまいという西国武将たちの強烈なライバル心が、完璧に交差する。
「富子様! その一番乗り、我が山名家がいただきましょうぞ! 明日にでも船の仕度にかかりまする!」
老将・宗全が、若者のような血走った目で叫ぶ。
「黙れ宗全! 未知の海を切り拓くは、最新鋭の快速船を持つ我が細川軍こそがふさわしい! 富子様、どうか我らにお任せくだされ!」
勝元が吠え、大内や畠山、斯波らも我先にと名乗りを上げる。
広間は、先ほどまでの倦怠感が嘘のように、凄まじい熱気と闘争心に包み込まれた。
***
狂乱する武将たちの姿を眺めながら、薫子は満足げに扇子で口元を隠した。
『ひゃっはー! 釣れた釣れた! 最高のルアーに食いついたわね!』
大航海時代の最大の果実である「アメリカ大陸」。
史実において、それをヨーロッパ列強が発見し、莫大な富を独占したことが、後の数百年にわたる西洋の覇権を決定づけた。
『ヨーロッパの連中がチマチマとアフリカの沿岸を南下している間に、私たち日本が太平洋を真っ直ぐに横断して、新大陸を先取りする。……これで、歴史の覇権は完全にこの国のものになるわ!』
応仁の乱で消費されるはずだった日本の全エネルギーが、アジアの枠を超え、ついに「地球規模の競争」へと解き放たれようとしていた。
極東の島国が世界地図を塗り替える壮大な時代の幕開けが、今まさに始まろうとしている。




