第51話:薫子包囲網の突破 〜『室町ファンド』と結婚した女〜
一四七二年。
応仁の和議から五年が経過した京の都は、かつての不穏な空気が嘘のように、空前の活気と黄金の輝きに包まれていた。
西国勢が開拓した南洋の香辛料。
そして、関東勢である足利成氏や上杉家がもたらした、北方の極上毛皮や佐渡の金塊。
東西の巨大な富は、強固な街道網と決済システムを通じて、室町幕府の金庫へと滝のように流れ込んでいた。
その莫大な富の中心である室町第の一室。
そこには、山のように積まれた結納品や釣書(見合いの身上書)を前に、深い溜息をつく薫子の姿があった。
二十四歳となった彼女は、上質な絹の小袖を身に纏い、静かに呟いた。
「また増えておじゃります……」
かつて暗殺の刃から身を守るために着ていた小間使いの粗末な着物は、もはや彼女には必要ない。
彼女の卓越した手腕と論理は、すでに幕府内で誰もが知る絶対的なものとなっていたからだ。
だが、実力と美貌を兼ね備え、何より幕府の金庫の鍵を握る彼女を、周囲の権力者たちが放っておくはずがなかった。
公卿や有力大名たちから、正室や側室に迎えたいという申し出が、毎日のように殺到していたのである。
「ふふっ。モテるおなごは辛いおすなぁ、薫子」
カラカラと笑いながら部屋に入ってきたのは、将軍正室・日野富子であった。
その身を包む打掛は、明国から輸入された最高級の刺繍が施され、絶対的な権力者の威厳を放っている。
「富子様。笑い事ではおじゃりませぬ。これでは日々の決算や、次なる航海の計画に支障が出まする」
薫子が困ったように眉を下げると、富子は扇子をパチンと鳴らし、不敵な笑みを浮かべた。
「案ずるな。ハエどもは、うちがまとめて追い払ったるえ」
***
数日後、室町第の大広間。
細川勝元や山名宗全をはじめ、東西の有力大名たちが一堂に会していた。
彼らはそれぞれが莫大な利益を上げる巨大コンツェルンの総帥としての顔を持ち、かつての血みどろの対立は、今やいかにして幕府の利権を勝ち取るかという経済競争へと変質している。
上座に座る富子の斜め後ろには、実務の最高責任者として、薫子が静かに控えていた。
大名たちの視線が、時折、値踏みするように薫子へと向けられる。
富子は優雅に扇子を広げ、居並ぶ大名たちをねめ回した。
「皆の者、よう集まってくれはりました。今日は他でもない、うちの可愛い薫子の縁談について、はっきりと申し渡しておこうと思うてな」
その言葉に、大名たちが色めき立つ。
誰がこの黄金の生る木を手に入れるのか。広間に緊張が走った。
しかし、富子の次の一言が、彼らの野心を一刀両断した。
「ええか。薫子は、この室町幕府の心臓どす。誰ぞ特定の家に嫁がせ、利権を独占させるような真似は、天地がひっくり返ってもおまへん!」
富子の凄まじい威圧感に、大名たちは息を呑んだ。
「薫子はな、国家と結婚した女でおす。これ以上、つまらぬ釣書を持ってくるようなら……今後の融資と航海の手形、一切差し止めさせてもらいますえ」
融資の停止。
それは、莫大な借金を抱えながら海外事業を回している大名たちにとって、即座の経済的な死を意味する。
「そ、そのようなご無体な……!」
「我らはただ、薫子殿の才覚を高く評価して……」
言い訳を並べる大名たちに対し、薫子が静かに一歩前へ出た。
「諸将の皆様方」
透き通るような、それでいて広間の隅々にまで届く凛とした声。
大名たちは、思わず居住まいを正した。
彼らは、この若き女性が紡ぎ出す反論不可能な論理によって、これまで何度も窮地を救われ、同時に莫大な利益をもたらされてきたことを誰よりも知っている。
薫子は、深く、そして美しく一礼した。
「私めのような若輩者に過分なご評価をいただき、誠に痛み入りまする。なれど、私の夫は、この日ノ本という国そのものでおじゃりまする」
薫子は顔を上げ、大名たち一人一人の目を見つめた。
「特定の家に与するのではなく、皆様方すべての事業を支え、共にこの国をかつてない高みへと押し上げること。それこそが、私の生涯を懸けた役目と心得ておじゃりまする」
その言葉には、一切の驕りも、嫌味もなかった。
ただ純粋に、国家全体の繁栄を見据える透徹した論理と覚悟だけが宿っていた。
細川勝元が、小さく息を吐き、静かに頭を下げた。
「……薫子殿の御覚悟、しかと承知いたしました。我らごときが、小さな家の利益で囲い込もうなどと、浅薄な考えであったわ」
勝元が頭を下げたことで、山名宗全をはじめ、関東を束ねる足利成氏の使者たちも次々と深く平伏した。
それは権力への屈服だけでなく、彼女の知性と献身に対する、大名たちの自発的で心からの敬意の表れであった。
「ご理解いただき、感謝申し上げまする」
薫子は再び丁寧に礼をした。
これでもう、鬱陶しい政略結婚の火種に悩まされることはない。
内心で静かに安堵の息を吐きつつ、薫子は表情をスッと引き締めた。
「では、本題に入りまする。次なる未知の大海への船出について……東西の力を結集した、史上最大の計画をご説明いたしまする」
薫子の後ろで、巨大な世界図が音を立てて広げられた。
大名たちの目に、再び猛烈な野心の炎が灯り始める。
いよいよ、東国と西国が完全に手を結び、地球規模の航海へと打って出る時が来たのである。




