第138話:マキャヴェッリの戦慄 〜袋小路の旧大陸〜
西の果て、羅馬方面の美しい都市国家、フィレンツェ。
メディチ家宮殿の奥深くにある薄暗い密室で、若き天才官僚ニッコロ・マキャヴェッリは、手にした羊皮紙を前にして、石像のように固まっていた。
「……馬鹿な。何かの間違いだ」
彼の手は微かに、しかし確実に震えていた。
天竺へ送り込んだ私兵連合軍、そして自らが扇動して向かわせた旧大陸各国の正規軍。
彼らからの最新の報告書には、マキャヴェッリが思い描いていた「輝かしい勝利」と「莫大な富の独占」の文字はどこにもなかった。
そこに綴られていたのは、底知れぬ絶望と混乱であった。
『ジパングの大船団は、いまだ姿を見せず』
『商船の往来は皆無。天竺は完全に孤立せり』
『外部の商人による兵糧の釣り上げにより、接収した黄金は異常な速度で枯渇しつつあり』
『二十万の兵を抱え、港は飽和状態。水と食糧を巡る小競り合いが頻発し、暴動の危機にあり』
***
「……どういうことだ。なぜ、ジパングは奪い返しに来ない?」
マキャヴェッリは血走った目で、机の上に広げられた世界地図を睨みつけた。
「あれほど莫大な富を生み出していた、世界の中心たる天竺だぞ!? なぜ、いとも簡単に捨て置けるのだ!」
彼は、旧大陸の常識である「土地至上主義」の呪縛から逃れられていなかった。
土地を奪えば富が手に入る。だからこそ、ジパングは必ず全軍を挙げて天竺を奪還しに来るはずだった。
その猛攻を防ぐために、彼は「海を埋め尽くす二千の船」という物理的な蓋を用意したのだ。
『……いや、違う。ジパングは『奪還を諦めた』のではない』
マキャヴェッリの優秀な頭脳が、バラバラだった情報を一つの残酷な真実へと結びつけていく。
世界中から一斉に姿を消したジパングの商船。
そして、手付かずのまま残されていた天竺の莫大な黄金。
『……そうか。奴らにとって、天竺という『土地そのもの』には、何の価値もなかったのだ』
マキャヴェッリは、息を呑んで後ずさりした。
極上の絹や香辛料を運び、世界中の商人を惹きつける『ジパングの商船』が絶え間なく訪れるからこそ、あそこは黄金の国だった。
ジパングの巨大な商い網から外れ、商船が寄り付かなくなった瞬間、あの天竺はただの「無価値な砂浜」へと逆戻りしたのである。
「我々は……空っぽの箱庭に、二十万もの大軍を押し込んでしまったというのか……!?」
マキャヴェッリの背筋を、氷のような悪寒が駆け下りた。
彼が「ジパングの奪還軍から天竺を守るため」に扇動して集めた二十万の軍勢。
それは結果として、旧大陸の貴重な防衛戦力と国庫を空っぽにして、何一つ富を生み出さない死地へ送り込んだだけの自滅行為であった。
『ジパングの狙いは、これだったのだ……!』
マキャヴェッリは、震える両手で己の顔を覆った。
ジパングは、最初から一滴の血も流す気はなかった。
ただ「商いを止めて、天竺を無視する」という決断を下すだけでよかったのだ。
武力を使わずとも、敵が勝手に二十万の軍勢を率いて空箱の中に入り込み、自らの重みと飢えで自滅していく。
己の仕掛けた「海に蓋をする構想」は、ジパングの罠を完成させるための最後の一手でしかなかったのだ。
「あ、悪魔だ……! 奴らは人間ではない……!」
マキャヴェッリは、薄暗い密室の中で力なく膝から崩れ落ちた。
極東の島国は、剣や大砲よりも遥かに恐ろしい「経済」という見えない兵器を使って、旧大陸を完璧な袋小路へと追い込んだのだ。
「このままでは……天竺の二十万の兵が飢え死にするだけではない。主力の軍船と莫大な資金を失った旧大陸の国々は……すべて、ジパングの前にひざまずくしかなくなる……!」
天才官僚の矜持は粉々に砕け散り、彼はただ、迫り来る見えない破滅の足音に怯え、震えることしかできなかった。




