第137話:幻の勝利と、空っぽの覇権
天竺西海岸、古里。
ジパングの商館を接収した旧大陸の私兵連合軍と正規軍の指揮官たちは、夜ごと盛大な宴を開き、勝利の美酒に酔いしれていた。
「見よ! 今日もジパングの悪魔どもは、水平線の彼方に影すら見せぬ!」
ヴェネツィア出身の没落海商が、黄金の杯を高く掲げて叫ぶ。
「我らが築き上げた二十万の分厚い壁の前に、ついにあの小国の猿どもは奪還を諦め、恐れをなして逃げ散ったのだ!」
「「「おおおおおっ!! 偉大なる勝利に乾杯!!」」」
広間には、狂信的な騎士たちや、オスマン帝国、イングランドの司令官たちの野太い歓声が響き渡る。
彼らの足元には、ジパングが残していった莫大な金銀財宝が山のように積み上げられ、眩いばかりの光を放っていた。
懸念されていた食糧問題も、メディチ家などが秘密裏に送り込んでくる偽装船団からの兵糧支援によって、当面は完全に解消されていた。
腹を満たし、無敵の艦隊で海を塞ぎ、莫大な黄金を手に入れた彼らは、自分たちが「世界の新たな覇者」になったのだと信じて疑わなかった。
***
しかし、その「幻の勝利」の狂騒から数週間が経過した頃。
古里の港湾地区で、奇妙な焦燥感が漂い始めていた。
「……おい。今日も一隻も来ないぞ」
港の物見櫓で海を見張っていた兵士が、首を傾げてつぶやいた。
彼の視線の先には、味方の軍船が海を埋め尽くしているだけで、それ以外の船影は全く見当たらない。
「ジパングの軍船が来ないのは良いことだろうが。何を怯えている」
「違う! 俺が言っているのは『商船』だ!」
兵士は血走った目で同僚を振り返った。
「ここは、世界中の富が集まる天竺の港だぞ!? 我々がここを占領してから、西域の商人も、南蛮の商人も、滅多にやって来ないじゃないか!」
その事実に気づき始めていたのは、彼ら末端の兵士だけではなかった。
***
本陣の執務室では、ヴェネツィアの海商が、分厚い帳簿と山積みになった金塊を前に、苛立たしげに貧乏揺すりをしていた。
「……どういうことだ。なぜ、黄金がこんなにも減っている」
彼は商人の端くれである。
黄金は、それを使って別の物資と交換し、利益を回して初めて「富」となることを知っていた。
「総督。……メディチ家とは別の、商売で兵糧を運んできている商人どもが、また麦の値を吊り上げてきやがりました」
副官が青ざめた顔で報告する。
「我々に、真っ当な取引相手が居ないだろうと、足下を見ているのです! このままでは、ジパングから奪った財宝が、異常な速度で溶けていきます!」
「ええい、忌々しい! ならば、我々の船にこの黄金と香辛料を積み、自ら南蛮へ戻って商いをすればよかろうが!」
海商が怒鳴りつけると、副官はさらに顔色を悪くして首を横に振った。
「そ、それが……。すでに一部の者たちが、自分の取り分を船に積んで南蛮へ向かいましたが……彼らの大半は、この天竺へ戻ってきておりません」
「なんだと……?」
海商は言葉を失い、ドサリと椅子に座り込んだ。
『……それはそうだ。冷静に考えれば、戻ってくる訳がないではないか』
彼の脳裏に、ぞっとするような恐ろしい推測がよぎる。
確かに、不足している物資を積んでこの天竺へ向かえば、莫大な財宝と交換できるだろう。
だが、その「リスク」があまりにも高すぎるのだ。
この天竺の港には今、国籍も目的もバラバラな二十万の兵士が、ただひたすらに暇を持て余し、食糧を消費しながらひしめき合っている。
ジパングが管理していた頃のような、商いの安全を保障する「絶対的な法」も「秩序」も存在しない。
『物資を積んでここへやって来たとして……飢えと欲に飢えた二十万の軍勢の前で、まともな商いができるか? 次にここへ来る船が、略奪されない『味方』である保証など、どこにもないではないか……!』
さらに致命的なのは、メディチ家などの秘密支援も「永遠ではない」ということだ。
ジパングの世界的な商い網から外れたこの危険な無法地帯へ、いつまでも船を送り続けてくれる保証などない。
海商は、震える手で目の前の金塊を一つ持ち上げた。
ズシリと重い、間違いなく純金である。
しかし、ここが「誰も安全に取引できない孤立した無法地帯」であるならば。
『……この黄金は、我々の命を繋ぐために削り取られていくだけの、ただの重たい『石ころ』ではないか……!?』
彼は、ようやくジパングが仕掛けた恐るべき罠の全貌に気がついた。
ジパングは、天竺を奪還する気など最初からなかったのだ。
富の源泉は天竺という「土地」ではなく、ジパングの圧倒的な武力と信用によって世界中に張り巡らされていた「商いの繋がり」そのものであった。
その繋がりを意図的に断ち切られ、秩序が崩壊した瞬間、天竺は世界最高の商い場から、底なしに富を喰らい尽くす「巨大な流刑地」へと成り下がったのである。
「あ、悪魔だ……! 奴ら、我々を……この空っぽの箱庭に閉じ込め、互いに喰い合って自滅させるために、わざとこの黄金を残していきやがったのか……!!」
莫大な黄金を抱え、二十万の兵で分厚い要塞を築き上げた旧大陸の覇者たち。
彼らは、世界から完全に「無視」され、異常な速度で財宝を溶かしながら、緩やかな飢えと自滅への道を転がり落ちていくことに、ようやく気づき始めたのである。




