第135話:薫子のロジック 〜土地は富を生まない〜
京都、室町第。
日本の、いや世界経済の中枢である巨大な大広間に、世界各地から続々と「光の通信」による報告が舞い込んでいた。
「呂宋の大内軍、天竺を大きく迂回する南方新航路にて、商船団の護衛を再開!」
「亜歴山の細川軍も同調! 羅馬方面から南方大陸へ向かう新航路を確立!」
「山名軍、大東大陸からの物資輸送を再開! すべて天竺周辺の海域を完全に避けております!」
報告を読み上げる役人の声には、驚愕と興奮が入り混じっていた。
世界を麻痺させていた日本の巨大な「商い網」が、天竺というかつての心臓部をぽっかりと切り捨てたまま、新たな血管を構築して猛烈な勢いで再稼働し始めたのである。
だが、古くからの「領地至上主義」の価値観を持つ幕府の一部の重鎮たちは、未だにその「完全な放棄」という決断の意図を測りかねていた。
「……薫子様。本当に、これでよかったのでござるか?」
一人の老武将が進み出て、御簾の奥へ向かって深く頭を下げた。
「天竺の古里は、我が日ノ本が莫大な銭を投じて築き上げた、世界最大の商いの要衝。あそこには、いまだ途方もない価値の設備と、運びきれなかった莫大な財宝が残されております。それを、あの旧大陸の狂犬どもにくれてやるなど……」
「……ふふふっ」
御簾の奥から、薫子の涼やかな笑い声が漏れた。
彼女はゆっくりと御簾を上げ、広間へと歩み出た。その手には、精巧な世界地図が描かれた扇子が握られている。
「老将殿。そなたはまだ、『富の正体』というものを履き違えておるようでおじゃるな」
薫子の冷徹な視線に、老将はビクッと肩を震わせた。
「あの旧大陸の狂犬どもと同じでおじゃる。彼らは『豊かな土地を奪えば、自分たちも豊かになれる』と信じ込んでおる。……だが、それは決定的な間違いでおじゃるよ」
薫子は扇子で、地図上の天竺の部分を冷たく叩いた。
「よくお聞きやす。……天竺という『土地そのもの』が、富を生み出していたわけではおじゃりませぬ」
静まり返る大広間に、薫子の凛とした声が響き渡る。
「我々日ノ本の商船が極上の品を運び、世界中の商人をあの場所に集めていたからこそ、あそこは『黄金の国』になり得たのでおじゃる。富の源泉は土地などという空箱ではなく、人と物が交差する『商いの繋がり』そのもの……!」
薫子はパチンと扇子を閉じた。
「我々が『もう行かない』と決めた瞬間、天竺がどれほど立派な設備を持っていようと、そこはただの辺境の砂浜に逆戻りする。ただそれだけの事でおじゃる」
「……つまり、奴らが必死に手に入れたのは『価値のなくなった空箱』であると?」
上座で話を聞いていた若き将軍・足利義材が、その残酷な真理に気づき、感嘆の息を漏らした。
「左様におじゃります、上様。奴らは今頃、残された財宝や黄金を見て『勝った』と狂喜乱舞している頃でおじゃりましょう。……だが、すぐに気づくはずでおじゃりまする」
薫子の唇が、悪魔のように優雅な弧を描いた。
「どれほど黄金の山を持っていようと、それを『麦』や『水』に替えてくれる我々の商船が寄り付かなければ、黄金などただの重たい石ころと同じでおじゃりまする。……二十万もの大軍勢が、その『食べられない石ころ』を抱えたまま、何一つ生み出さない空箱の中に閉じ込められたのでおじゃりまする」
大広間の武将たちは、一様に息を呑み、背筋にぞっとするような悪寒を感じた。
大砲の火の雨を降らせるよりも、何万倍も恐ろしい。
一滴の血も流さず、一文の銭もかけず、敵を完璧な「飢餓地獄」へと突き落とす、究極の兵糧攻めであった。
「えげつないわぁ……ほんまに、恐ろしい娘やで」
日野富子が煙管の煙を吐き出しながら、カラカラと笑った。
「せやけど、これ以上の『見せしめ』はないわな。世界中の国々に『日ノ本に逆らえば、武力ではなく、こうやって国ごと干し上げられる』と骨の髄まで分からせることができるんやから」
「御意におじゃります。……さあ、我々は天竺など放っておいて、新しい道で存分に銭を稼ぎましょうぞ」
***
薫子のロジックは、完璧であった。
京都から発せられたその冷酷な意思は、光の通信と韋駄天の快速船を通じて、世界中の日本の大名たちへと共有された。
「天竺を完全に迂回せよ! 奴らに一粒の麦も、一滴の水も売るな!」
呂宋の大内、亜歴山の細川、南方大陸の山名。 彼らは何千隻もの商船を操り、天竺の海域には一切近づくことなく、世界の海を巨大な毛細血管のように縫って、強引に新しい交易ルートを開拓していった。
それは、日本の圧倒的な「造船技術(外洋航行能力)」と、どのような海でも正確に現在地を把握できる「羅針盤と海図」、そして何より「世界規模の組織力」があったからこそ可能な離れ業であった。
旧大陸の連合軍が二十万もの兵で「天竺の海に蓋をした」と喜んでいる間。
日本は、その蓋をこじ開けることすら時間の無駄だと切り捨て、はるか遠回りの場所に新しいパイプを作ってしまったのである。
世界経済の血流は、再び力強く脈打ち始めた。
ただ一箇所、天竺という「死に至る病巣」だけを、完璧に孤立させたまま。




