第134話:到着した大船団と、冷酷なる『指示書』
呂宋の巨大な湊に、耳を劈くような銅鑼の音が鳴り響いた。
「北の水平線に船影! 夥しい数です! ……掲げられたるは、日章二引両! 本国からの増援大艦隊にございます!!」
物見櫓からの絶叫に近い報告に、重苦しい空気に包まれていた港が、一瞬にして爆発的な歓声に包まれた。
長きにわたる商いの停止と、防衛のための莫大な維持費。
その二重苦に耐えかね、今まさに限界を迎えようとしていた大内軍の兵士たちが、涙を流して水平線を指差している。
旗艦の甲板にいた大内家の重臣・陶興房も、単眼鏡(望遠鏡)越しにその威容を捉え、ニヤリと獰猛な笑みを浮かべた。
最新鋭の巨大なガレオン船が、海を埋め尽くすようにして真っ直ぐに呂宋の湊を目指して進んでくる。
その数は優に千隻を超えており、鋼鉄の砲門が西日に鈍く光っていた。
「待たせおって……! ええか、皆の者! 直ちに出港の準備じゃ!」
興房の腹の底から響く号令に、若武者たちが一斉に居住まいを正す。
「溜まりに溜まった商船どもを動かす時が来たぞ! 我らが誇る大砲の火で、あの天竺を塞ぐ忌々しい障害物どもを海からどかし、商いの大動脈を再び通すのじゃ!」
「「「おおおおおっ!!」」」
血気盛んな若武者たちも、長きにわたる赤字と停滞の鬱憤を晴らすべく、一斉に咆哮した。
***
数時間後。
呂宋の港に接舷した増援艦隊の旗艦に、陶興房は足早に乗り込んだ。
出迎えたのは、幕府から派遣された冷静沈着な大将であった。
「陶興房殿。遠方での長きにわたる防衛の任、誠に大儀であった」
「なに、公方様のためなれば当然の務めにござる。さあ大将殿、全軍の補給を速やかに済ませてくだされ。すぐにでも天竺へ向け、海路をこじ開ける陣触れを……」
前のめりに手配を進めようとする興房を、大将は静かに手で制した。
「お待ちくだされ。出撃の前に、公方様……ならびに、富子様と薫子様より、興房殿へ直接の特命をお預かりしております」
大将は懐から、厳重に蝋で封をされた分厚い書状を取り出した。
「此度の増援の『真の目的』が、ここに記されております。直ちに開封し、この指示にのみ従うようにと」
「……特命、じゃと?」
興房は怪訝な顔で書状を受け取ると、封を切り、中に記された指示書に目を通した。
『さあ、いかほどの火薬と兵を使い、最速で天竺のルートを奪還せよと……』
しかし。
興房の視線は、書状の数行を読んだところでピタリと止まった。
そこには、現場指揮官の常識を根底から覆す、あまりにも簡潔で、冷酷な命令が記されていたのである。
『天竺は、そのまま放置せよ』
興房は目を細め、続く文章を目で追った。
『増援の到着によって生じた防衛の余力を以て、即座に大商船団の護衛を再開すること。天竺周辺の海域は完全に無視(迂回)し、平時と同じく世界規模の商いを再開せよ』
静寂が降りた。
『天竺を放置し、無視せよじゃと……?』
西と東を結ぶ最重要の要衝である天竺を諦め、大回りで別の新航路を拓く。
それは一見すると、大変な手間であり、非効率の極みのように思える。
大砲を撃ち込んで敵をどかしてしまった方が、圧倒的に早く元の商いに戻れるはずだ。
だが、興房の優秀な頭脳は、その指示書の奥底にある「真の意図」に到達するまで、わずか数秒しかかからなかった。
「……なるほどな」
興房の口から、低く、地鳴りのような笑い声が漏れた。
「大将殿。……都におわす狐どもは、相変わらず血も涙もない悪鬼羅刹じゃのう」
「……お分かりになられましたか」
「当たり前じゃ。天竺を『武力』で奪還すれば、大砲を一発撃つごとに莫大な銭と火薬が飛ぶ」
興房は、背後に広がる世界地図の「天竺」の部分を指差した。
「だが、我らが天竺を完全に無視(迂回)して、別のルートで商いを始めたらどうなる?……あの天竺の空箱に群がった二十万の狂犬どもは、いつまで経っても我らの船が寄り付かない海で、ただ莫大な兵糧を喰い潰すだけの『ゴミ』に成り下がる」
興房は己の顔を覆い、肩を震わせた。
もし大砲で敵を沈めれば、一瞬で終わる。
しかしこの指示書が命じているのは、何一つ手を出さず、一文の銭もかけず、敵が自らの重みで餓死し、発狂していくのを外から眺めるという「極限の兵糧攻め」であった。
「くっ、くくく……! はーっはっはっは!!」
興房は腹の底から湧き上がるような、歓喜の大笑いを上げた。
「恐れ入ったわい! わしは『商い網』が大事じゃと分かっていたつもりじゃったが、まだ『天竺という中継地(場所)』に執着しとったようじゃ! 相手を干上がらせる最大の武器は、大砲ではなく『完全なる無視』じゃったか!」
興房の笑い声に、周囲の若武者たちが戸惑いの表情を浮かべる。
「ええか、皆の者! 敵を排除する軍は取りやめじゃ!!」
興房は、薫子からの指示書を高く掲げて叫んだ。
「直ちに護衛の陣形を組み直し、溜まりに溜まった商船どもを出港させよ! 天竺なんぞ完全に無視して、世界中の銭を再び日ノ本へかき集めるのじゃ!!」
「は、ははっ!!」
大内軍の巨大な港が、今度は「戦」ではなく、本来の「商い」の活気を取り戻して猛烈に動き始める。
世界を麻痺させていた日本の巨大な血流(商い網)が、天竺という「死んだ細胞」を完全に切り捨てて、別の血管を通り、再び力強く脈打ち始めた瞬間であった。




