第133話:停滞する経済と、大名たちの苛立ち
呂宋の巨大な湊は、かつてない異様な光景に包まれていた。
天竺から撤退してきた大内軍の数千隻に及ぶ大艦隊が、湊の沖合に隙間なく展開し、分厚い「鋼鉄の防城」を築き上げている。
大砲の砲門は常に西の海に向けられ、兵士たちは昼夜を問わず臨戦態勢を維持していた。
しかし、その圧倒的な武威の裏側で、大内家の重臣・陶興房は、旗艦の甲板を苛立たしげに歩き回っていた。
「……ええい! 今日も敵の影はなしか!」
***
「はっ! 水平線の彼方まで見渡しておりますが、敵の船団が接近してくる気配は微塵もございませぬ!」
物見櫓からの報告を聞き、興房はギリッと奥歯を噛み締めた。
天竺を軍勢で塞いだ敵が、その勢いを駆ってこの呂宋まで押し寄せてくる。
そう予測して第一級の警戒態勢を敷いてから、すでに数十日が経過していた。
だが、敵は一向に姿を現さない。
『あの狂犬ども、天竺の富を手に入れて満足しおったか……? いや、それよりも問題なのは……』
興房の視線は、沖合の軍艦の群れから、呂宋の湊の内側へと向けられた。
そこには、世界各地へ向かうはずだった数百隻の巨大な大型商船と、それらに物資を運ぶ無数の小型船が、帆を畳んだままぎっしりと係留されていた。
商船には、日本から運ばれてきた極上の絹織物や漆器、陶磁器などが山のように積まれたままだ。
それらが動いて利益を生み出さなければ、当然、新たな銭は一文も入ってこない。
「興房様……このままでは、我らが干上がってしまいまする」
勘定方の武将が、青ざめた顔で分厚い帳簿を抱えて進み出た。
「軍船を海に浮かべ、数万の兵に飯を食わせ、火薬を湿気から守る……。ただ『待つ』というだけで、毎日、蔵の銭が滝のように消えております!」
「分かっちょるわ!!」
興房は怒鳴り声を上げたが、それは部下へ向けられたものではなく、何もできない現状に対する己への苛立ちであった。
『戦ならば、撃って出て蹴散らせば終わる。じゃが、来ない敵を待ちながら商いを止めるっちゅうのは、真綿で首を絞められるようなもんじゃ……!』
大内家は莫大な富を持つが、それは「商い」という血流が常に動いているからこそ維持できるものだ。
血流が止まれば、いかに巨大な組織であろうと、その重みで自らを食い潰してしまう。
***
この深刻な「経済の停滞」に苦しめられていたのは、大内家だけではなかった。
西域・地中海の海域を統括する細川家。
南方大陸の拠点を管轄する山名家。
世界各地に展開する日本の有力大名たちは皆、天竺の敵艦隊に対抗すべく、それぞれ数千隻規模の軍船を海上に展開し、鉄壁の防衛態勢を維持し続けていた。
しかし、それは同時に、彼ら自身の首を絞める行為でもあった。
細川家の巨大拠点、亜歴山の大商館。
かつては世界中の商人が行き交い、黄金の雨が降るとまで言われたこの都市も、今は重苦しい静寂に包まれていた。
執務室の扉が開き、情報収集を担う軒猿の頭目が足早に入ってくる。
「……商館長。天竺に集結した『敵の正体』が割れました」
「ほう。どこぞの馬の骨が群れておるのだ」
細川家の商館長が低い声で問うと、軒猿の頭目は険しい表情で報告書を差し出した。
「中核を成しているのは、スペインの異端審問官やヴェネツィアの没落海商らが私財を投げ打って結成した『私兵の寄せ集め』です。……しかし、問題はその後です。それに呼応するように、オスマン帝国やイングランドの正規軍までが続々と天竺へ合流しております。総数は二千隻、二十万に達する見込みかと」
「なんだと……!?」
商館長は、バンッと机を叩いて立ち上がった。
「ええい、忌々しい! 日和見を決め込んでいた国々まで、我がジパングの富に目が眩んで狂いおったか!」
「いかがなさいますか。所詮は欲と面子で寄り集まった烏合の衆。我ら細川の誇る大艦隊で海峡を越え、背後から急襲すれば蹴散らすことも可能かと存じますが」
「阿呆! それこそ向こうの罠かもしれんのだぞ!」
商館長は、報告書を床に叩きつけた。
「二十万という数が異常なのだ。天竺への大軍の移動に乗じて、空になったはずの西域から別の伏兵が現れるやもしれん。敵がいつ、どこへ動き出すか分からぬ以上、この亜歴山の警戒を解いて攻め込むわけにはいかぬ!」
商館長は、窓の外に係留されたままの自軍の商船を睨みつけた。
「……だが、このまま商船を港に釘付けにしておいては、軍船の維持費だけで我が細川の商会が先に破綻してしまうぞ!」
大名たちにとって、武力による敗北よりも恐ろしいのは、「不渡り」を出し、幕府や土倉からの信用を失うことである。
圧倒的な軍事力を持ちながら、商いができないというただ一点において、彼らは見えない恐怖と苛立ちに苛まれていた。
***
「……都からの増援は、まだ到着せぬのか!」
呂宋の湊で、陶興房は血走った目で北の海を睨みつけていた。
防衛に割いている軍事力を補うための、幕府からの大規模な増援艦隊。
それが到着しなければ、彼らは警戒態勢を解いて商いを再開することができない。
『公方様、そしてあの底知れぬ女狐どもは……いつまで我らに『待て』と命じるおつもりか!』
興房は、焦燥感に駆られながら船の欄干を強く叩いた。
大内、細川、山名。
世界を分割支配する巨大商社の頭取(大名)たちは、一様に限界を迎えつつあった。
彼らは、天竺の敵が自重崩壊し始めていることなど知る由もない。
ただ目前の帳簿の赤字と、動かせない商船を前に、ギリギリの精神状態で踏みとどまっていた。
「早く……早く本国からの指示が来ねば、本当に我らが干上がってしまうぞ……!」
世界中の日本の大商館に、かつてない悲鳴と苛立ちが充満していた。




