第129話:次期CEOの決断 〜将軍・義材と薫子〜
京都、室町第。
日本の中枢にして、世界経済のすべてを動かす巨大な『本社』の大広間は、かつてない激高と喧騒に包まれていた。
「おのれ、旧大陸の狂犬どもめ! 我らが日ノ本の威信を舐めおって!」
「大内軍が血を流さず撤退したのは英断なれど、このまま天竺を奪われたままにしておくわけにはいきませぬ!!」
血気盛んな若手武将たちが、次々と立ち上がって声を張り上げている。
彼らの怒りは尤もであった。
天竺の古里は、莫大な富を生み出す西の最重要拠点である。
そこを十万もの野蛮な私兵集団に土足で踏み荒らされたとなれば、武士の面子に関わる事態であった。
「上様!! 直ちに予備の大船団を編成し、天竺へ派遣なされませ!」
「我らが誇る鋼鉄の大砲を以て、十万の蛮族どもなど海の藻屑に変えて御覧に入れまする!!」
広間の空気は、「武力による即時奪還」へと完全に傾いていた。
しかし、上座で彼らを見下ろす若き将軍――足利義材の表情には、熱狂の色など微塵もなかった。
***
『……阿呆どもめ。算盤も弾けぬか』
義材は内心で深くため息をつき、扇子を手のひらに打ち付けた。
パァン! と鋭い音が広間に響き、武将たちが一瞬口をつぐむ。
「……勇ましいことじゃ。だが、問おう」
義材は、冷徹な眼差しで武将たちを射抜いた。
「十万の敵を大砲で海の藻屑にするとして、一発につきどれほどの銭が飛ぶ? 敵艦隊を殲滅するまでに、どれほどの弾薬費と、船団の維持費がかかると思っておるのじゃ?」
「そ、それは……! しかし、失われた面子と商い場を取り戻すためには、必要な出費にございます!」
食い下がる武将に対し、義材は鼻で笑った。
「面子で腹は膨れん。それに、大内の陶興房は、人も帳簿もすべて無事に退避させておる。天竺は今、ただの空っぽの土地に過ぎんのじゃ」
「し、しかし! あの場所を塞がれていては……!」
その時。
義材の背後、薄絹の御簾の奥から、くすくすという優雅な笑い声が漏れ聞こえた。
「上様の仰る通りやわ。血の気の多いことやけど、もうすこし頭を使いなはれ」
将軍の背後に控える絶対的権力者、日野富子の声であった。
彼女は煙管をふかしながら、面白くてたまらないといった様子で武将たちを眺めている。
そして、富子の傍らに控えていた薫子が、静かに御簾を上げて大広間へと歩み出た。
「皆様方、落ち着いておくれやす。……大船団の派遣は、直ちに行いまする」
***
幕府の真の頭脳とも言える薫子の言葉に、武将たちの顔にパッと希望の光が差した。
「おお! 薫子殿! では、やはり奪還の軍を!!」
「いいえ」
薫子は、極めて穏やかな、しかし絶対的な冷酷さを孕んだ声で首を横に振った。
「大船団は向かわせますが、天竺の『武力奪還』は行いませぬ。大砲の一発たりとも、撃つ必要はおじゃりませぬ」
「なっ……!? な、何故でござるか! では、何のために莫大な費用をかけて大船団を派遣するというのだ!」
激昂する武将たちに対し、薫子はふふっと扇子で口元を隠した。
『土地という箱に執着するから、十万なんていう重荷を背負う羽目になるのよ』
薫子の脳裏には、すでに敵の軍勢が辿るであろう凄惨な末路が、数式のように弾き出されていた。
「幕府が持つ、最大の『兵器』を使用いたしまする」
「最大の……兵器……?」
「左様におじゃります。……刀も大砲も使わず、敵が十万であろうと二十万であろうと、指一本触れずに確実に殲滅する、極上の兵器におじゃりまする」
薫子は懐から、厳重に封印された一通の書状を取り出した。
「この指示書を、増援に向かう船団の大将に持たせまする。現地に到着し次第、これを開封し、記された通りに動くようお伝えおきやす」
武将たちは、薫子が掲げたその小さな書状を、ゴクリと唾を呑んで見つめた。
日ノ本を、いや世界を裏から操ってきたこの恐るべき女が言う「最大の兵器」とは、一体何なのか。
それが大砲以上の絶望を敵にもたらすことだけは、その場にいる全員が肌で感じ取っていた。
「……よいな。指示書の手配を急げ」
義材が決定を下すと、武将たちはもはや反論することなく、静かに平伏した。
***
数日後。
京都の幕府本社から発せられた冷酷なる指示書を乗せ、巨大な増援船団が南の海へと出航した。
彼らが向かう先は、天竺周辺の海域で防衛態勢を敷き、商いができずに苛立ちを募らせている各国の駐留艦隊のもとである。
『さあ、旧大陸の狂犬ども』
京都の執務室で、薫子は世界地図の天竺の部分を指先でなぞった。
『武力による戦いしか知らないあなたたちに、世界で最も恐ろしい暴力の形を教えてあげるわ』
十万の敵軍が待ち受ける天竺へ向け、武力奪還を放棄した謎の増援船団が、静かに波を切って進んでいった。




