第128話:大明帝国の動揺と、中華の野心
世界中の商い網がピタリと停止したその影響は、日本の巨大な経済圏に組み込まれ、長年その恩恵を教授していた超大国・大明帝国にも直ちに波及した。
紫禁城の奥深く。
皇帝の御前会議は、これまでにない異様な熱気と混乱に包まれていた。
「陛下! 天竺の古里より、日本の商館が撤退したとの報せ、真にございます!!」
「南蛮の蛮族どもが十万の兵で押し寄せ、あの無敵を誇った日本の船団が、戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出したと!!」
報告に立つ役人たちの声は上ずり、顔は興奮で紅潮している。
これまで数十年間、日本がもたらす安価で高品質な工業品と、巨大な大内艦隊による圧倒的な海賊討伐の恩恵に浴し、明国は表向き「絶対親日」の立場を貫いてきた。
しかし、その実態は「武力と経済力で首根っこを押さえられている」という屈辱的な従属状態であった。
かつて世界の中心を自負していた中華の誇り高き官僚たちにとって、東の小国に生殺与奪を握られている現状は、耐え難い屈辱の連続だったのである。
***
「陛下!! 今こそ、我が大明帝国が立ち上がる時です!!」
一人の保守派の重鎮が、床に額を打ち付ける勢いで進み出た。
「あの傲慢なるジパングは、南蛮の狂犬どもに天竺を奪われ、ついに牙を抜かれました! 奴らの巨大な商いの網は、今やズタズタに引き裂かれております!」
その言葉に、周囲の官僚たちからも次々と同調の声が上がる。
「その通りにございます! 商いが止まり、日本の大名どもは莫大な軍船の維持費に喘いでいるはず!」
「今こそ、我らが立ち上がり、東の小国を討ち果たす絶好の好機! 失われた中華の覇権を取り戻し、世界の中心としての威光を再び世界に示すのです!!」
御前会議の空気は、「反日・中華復興」の熱狂へと完全に傾きかけていた。
彼らは、日本の「商いの停止」が、防衛のための合理的な手段であるという側面を理解していなかった。
あるいは、見たくない現実から目を背け、希望的観測にすがりつきたかったのかもしれない。
『天竺を奪われた日本は、もはや恐るるに足らず』
その思い込みが、彼らの長年の鬱屈としたプライドを爆発させ、朝廷内で暴発寸前の危険な主張となって渦巻いていた。
***
しかし、玉座に座る明国の皇帝は、熱狂する臣下たちを前にして、深く沈痛な表情を浮かべていた。
『……愚かな。』
皇帝は内心で、深くため息をつく。
確かに、日本が天竺の拠点を放棄したのは事実だ。 だが、あの底知れぬ恐ろしさを持つ隣の島国が、ただ怯えて逃げ出したなどと、どうして考えられようか。
数十年にわたり、彼らは血を流すことなく、ただ「銭と物の流れ」を操るだけで、大明帝国はおろか世界中の国々をがんじがらめに縛り上げてきたのだ。
『奴らが、天竺を『奪われた』だと?』
皇帝の脳裏に、かつて日本の使節が持参した、恐ろしく精巧な「世界地図」の記憶が蘇る。
『違う。奴らは『捨てた』のだ。何の価値もない、ただの土地の塊として……!』
皇帝の背筋に、冷たいものが走る。
今、日本の商船が止まっているのは、彼らが敗北したからではない。
世界中の血の巡りを意図的に止め、世界そのものを人質にとっているのだ。
もしここで、大明帝国が日本に叛旗を翻し、わずかでも敵対の意志を見せればどうなるか。
日本の商船は二度と明国の港を訪れず、国内の経済は瞬く間に干上がり、民は飢え、国は内側から崩壊するだろう。
「……静まれ!!」
皇帝の低く、しかし威厳に満ちた声が、広間に響き渡った。
熱狂していた官僚たちが、一瞬にして静まり返る。
「……此度の日本の動き、安易に推し量るべきではない。日本は未だ、その底知れぬ力を隠し持っておる」
皇帝は、血走った目で見上げる保守派の官僚たちを、冷徹に見下ろした。
「軽挙妄動は許さん。我らは静観を貫き、事の推移を慎重に見守るのだ」
「へ、陛下……! しかし、今を逃せば……!!」
食い下がろうとする官僚の言葉を、皇帝は冷酷な一瞥で切り捨てた。
「これ以上の妄言は、国を危うくする叛逆とみなす。下がれ!!」
***
御前会議は終わったが、紫禁城の奥深くには、依然として不穏な空気が澱みのように溜まっていた。
皇帝の決断は、表向きには日本への忠誠を維持するものであった。
しかし、長年の屈辱と、一時の希望的観測に憑りつかれた保守派の官僚たちの不満は、もはや抑えきれない臨界点に達しようとしていた。
『……このままでは、国が割れる。』
皇帝の危惧は、やがて現実のものとなる。
天竺の陥落を機に、世界は目に見えない巨大な「経済の嵐」へと突入していく。
その嵐は、大明帝国という超大国すらも、容赦なく飲み込もうとしていた。




