第125話:呂宋(フィリピン)への後退と、圧倒的福祉
天竺からの撤退戦を完全無傷で切り抜けた大内軍の大船団は、順風を帆に受け、巨大な東の海を駆け抜けていた。
目指す先は、極東の島国が誇る南方航路の超巨大ハブ拠点――呂宋である。
数千隻のガレオン船が数日間の航海を経て呂宋の近海に差し掛かると、甲板にひしめき合っていた天竺の避難民たちから、言葉の違う様々な声でどよめきが上がった。
見渡す限りの海岸線を埋め尽くす、巨大な石積みの防波堤と無数のクレーン群。
そして、熱帯の緑を切り裂くように整然と区画整理された、瓦屋根のメガロポリスがそこにはあった。
「興房様! 呂宋の湊へ入ります!」
旗艦の甲板で、若武者が声を張り上げる。
大内家重臣・陶興房は、腕を組みながら眼下の巨大な湊を満足げに見下ろした。
「よし。まずは都へ向けて、最速の連絡船を放て! 薩摩の湊へ着き次第、光の『腕木通信』で公方様へ急報を届けさせるのじゃ」
「ははっ! すでに韋駄天の船が待機しております!」
「天竺に十万規模の狂犬どもが押し寄せたこと、そして我が軍が『人』と『帳簿』を無事に連れ出したことを、いち早くお伝えするのじゃ」
連絡船が波を蹴立てて日本本土へ向かって飛んでいくのを見届けると、興房は鋭い眼光を背後の家臣たちへと向けた。
「さあ、戦は終わったが、ここからが本当の戦じゃ! 気を抜くでないぞ!」
***
興房の号令とともに、数千隻の船から数万人に及ぶ天竺の避難民たちが、次々と呂宋の巨大な港へと降り立っていく。
祖国を追われ、命からがら逃げてきた彼らの顔には、安堵と共に「これからどうなるのか」という強い不安の色が浮かんでいた。
無理もない。彼らは難民である。
言葉も通じぬ他国の領土へ身一つで転がり込んだ異邦人が、どのような惨めな扱いを受けるか。旧大陸の常識に照らし合わせれば火を見るよりも明らかだったからだ。
しかし、大内軍の動きは、彼らの悲観的な予想をことごとく裏切っていく。
「ええか! 事前に計画しちょった通り、第三の居住区画を即座に開放せい!」
興房は馬にまたがり、港の指揮所で怒号を飛ばしていた。
「現地の言葉が分かる通訳衆を走らせよ! 言葉が通じず怯えておる者も多いはずじゃ。身振り手振りでもええから、我らが危害を加えないことを伝えろ!」
大内家の莫大な資金力と、長年培われた高度なロジスティクスが、火を噴くように稼働し始めた。
「堺の規格で持ち込んだ木材と、大工衆を総動員して仮設の長屋を組み上げろ! 日暮れまでに全員が雨風を凌げる屋根を用意するのじゃ!」
「配管工はどこじゃ! 何より先に『上下水道』を通せ! 綺麗な水と厠の確保が最優先じゃ! 疫病を出したら腹を切る覚悟でやれ!」
怒涛の勢いで下される指示。
それは、単なる人道支援などではなく、幕府が長年かけて確立してきた「人を最も効率良く生かすための徹底的な都市計画」そのものであった。
***
「おお……なんということだ……」
古里の日本の商館で手代として働いていた初老の波斯人の男は、目の前に広がる光景に言葉を失っていた。
彼らが案内されたのは、泥にまみれた難民キャンプなどではなかった。
大内家の職人たちが、まるで魔法のような手際で、規格化された材木を組み立てていく。
数時間のうちに、風通しが良く頑丈な木造の長屋が、碁盤の目のように整然と立ち並んでしまったのだ。
「コチラへドウゾ! ヘヤ、ミズ、キレイナ水、出ル!」
商館で片言のペルシャ語を覚えた大内の若い役人が、身振り手振りを交えながら懸命に案内してくれる。
部屋には、すでに清潔な寝具が用意されていた。
さらに、広場からは食欲をそそる芳醇な香りが漂ってくる。
「サア、タベル! アタタカイ飯! タクサン、食ウ!」
炊き出しの巨大な鍋には、日本の昆布と魚粉で取られた極上の出汁に、新鮮な野菜と味噌がたっぷりと溶け込んでいた。
言葉の壁に苦戦しながらも、ほかほかの白米を器に盛り付けて配る役人たちの顔に、難民を蔑むような色は微塵もない。
「こんな……我々は土地を失った流浪の民だぞ……」
初老の男は、震える手で温かい椀を受け取った。
「こんなにも手厚く、人間として扱ってくれるというのか……!」
周囲の避難民たちも皆、言葉は通じなくとも、役人たちの温かな態度と食事の熱に心を打たれ、大粒の涙を流しながら飯をかき込んでいた。
恐怖と絶望のどん底から救い出され、行き届いた医療と、清潔な住居、そして極上の食事を与えられたのだ。
彼らの心に芽生えたのは、自分たちを救ってくれた日本という国に対する「絶対的な忠誠心」であった。
***
高台から、その炊き出しの煙と無数の灯りを見下ろしながら、陶興房は夜風を浴びていた。
『……まずは第一段階じゃ』
興房は、手すりに寄りかかりながら大きく息を吐き出す。
眼下に広がるのは、見知らぬ異国の地で安堵の眠りにつこうとしている数万の民の姿だ。
祖国の命令通り、一人残らず彼らの命を救い出し、無傷でこの呂宋まで連れ帰るという大役は見事に果たした。
だが、あの天竺には未だ、十万の兵を乗せた千隻の旧大陸の軍船が我が物顔で停泊しているのだ。
興房は遥か北方の夜空、都がある方角へと鋭い眼光を向けた。
『わしらの仕事はここまでじゃ。さあ、あの理外の怪物を前にして、公方様たちはどう動かれるか』
前代未聞の規模で襲来した、旧大陸の狂信者たち。
それを迎え撃つ、日の本を統べる底知れぬ知恵者たち。
『……面白くなってきやがったわい』
世界を巻き込む巨大な戦の気配を感じ取り、西国武士の瞳は次なる戦いへの野心と期待にギラギラと燃えていた。




