第123話:抜け殻の都市と、意図的な置き土産
天竺西海岸、古里
かつて大内家が管轄し、極東の島国が世界に誇る商い網の中心地として栄華を極めた巨大な港湾都市。
しかし今、十万もの兵を乗せた千隻に及ぶ旧大陸の連合艦隊がその港を埋め尽くした時、街を包んでいたのは異様な静寂であった。
先鋒艦隊が受けた不可解な砲撃による壊滅という凶報は本隊にも届いていたが、圧倒的な数を恃む彼らは、怒りと強欲のままに上陸を強行した。
だが、待ち構えているはずのジパングの防衛部隊の姿は、どこにもなかった。
***
「総督! 街には誰もおりません!」
甲冑を軋ませて駆け寄ってきた伝令の兵士が、息を切らして報告する。
私兵連合の指揮官の一人であるヴェネツィア出身の没落海商は、泥にまみれたブーツで豪奢な石畳を踏みしめながら、胡乱な目を向けた。
「誰もいないだと? あれだけ巨大な船団が逃げていくのは遠目に見たが、まさか兵の一人も残していないというのか?」
「はい! 家々の扉は開け放たれ、港湾の施設ももぬけの殻です! おそらく、我々の大艦隊を見て恐れをなし、尻尾を巻いて逃げ出したのに違いありません!」
「はっはっは! 異端の猿どもめ、己の矮小さをようやく悟ったか!」
スペインから参加した狂信的な騎士が、大剣を天に掲げて哄笑した。
「神の正義を代行する我らの威光の前に、逃げ散ることしかできまい! さあ、街をくまなく探せ! 異端どもが貯め込んだ富を、一つ残らず神の御名の下に回収するのだ!」
歓声とともに、数万の兵士たちがアリの群れのように古里の街へと雪崩れ込んでいく。
街のあちこちから、狂喜の絶叫が上がり始めた。
「総督! ご覧ください! 商館の奥の蔵に、信じられない量の金塊が!」
「こちらの蔵には、南蛮では見たこともないような見事な絹織物と、極上の香辛料の山が残されております!」
ヴェネツィアの海商は、兵士たちが次々と運び出してくる財宝の山を見て、己の目を疑った。
『なんだこれは……! まるで、わざと置いていったとでも言うのか?』
金貨、銀の延べ棒、宝石、見事な細工の施された漆器の数々。
これだけの財宝があれば、没落した己の家名を再興するどころか、故郷の元首の座すら金で買えるかもしれない。
「す、素晴らしい……! これぞ神の恵み! いや、ジパングの富だ! この天竺の拠点を落としただけでも、我らの遠征は莫大な利益を生み出したぞ!」
男は黄金の山に顔を埋めんばかりにして、下品な笑い声を上げた。
兵士たちもまた、略奪の許可を得た暴徒と化し、我先にと財宝を懐へねじ込んでいる。
恐怖と嫉妬から始まったこの無謀な遠征は、今や完全なる勝利の祝祭へと姿を変えていた。
……しかし、狂喜に沸く彼らの中で、冷静な観察眼を持つ数名の将校たちは、この街に漂う「決定的な違和感」に気づき始めていた。
***
「……おい。これはどういうことだ」
兵士たちの喧騒から少し離れた港湾地区で、一人の将校が青ざめた顔で立ち尽くしていた。
彼の視線の先には、ジパングの圧倒的な物流を支えていた巨大な木造のクレーン群があった。
しかし、そのすべてが、要となる滑車や歯車の部分を意図的に外され、あるいは徹底的に破壊されていた。
「これでは、我々の船から重い荷を降ろすことも、財宝を積み込むこともできんぞ……」
違和感はそれだけではなかった。
街中に張り巡らされていたはずの清潔な上下水道は、水源への水路が巧妙に塞がれ、完全に干上がっていた。
工業地区に立ち並ぶ巨大な水車群も、心棒を叩き折られ、ただの無残な木屑の山と化している。
彼らが手に入れたのは、確かに莫大な黄金であった。
だが、その黄金を生み出していた「都市としての機能」は、破壊されていたのである。
さらに致命的な報告が、総督たちの集まる本陣へと飛び込んできた。
「ご報告いたします! 街の隅々まで捜索いたしましたが……」
伝令の兵士の顔には、先ほどまでの歓喜の色は消え失せ、底知れぬ恐怖が張り付いていた。
「……食糧庫が、ほぼ空っぽです」
「なんだと!?」
ヴェネツィアの海商が、血相を変えて立ち上がった。
「馬鹿なことを言うな! これだけの巨大な街だぞ!? 数万の人間が暮らしていたのだ、莫大な備蓄があるはずだろう!」
「い、いえ! 麦も、肉も、あれほど噂に聞いていたあの長持ちする魚の干物も……すべて持ち去られております!」
伝令は震える声で続けた。
「残っていたのは、わずかに逃げ遅れたか、死を待つばかりの現地の老人たちが数名と……数日分にも満たない、腐りかけの麦の入った袋が少しだけです!」
その言葉が落ちた瞬間、本陣の空気が凍りついた。
彼らは、十万の軍勢でこの地に乗り込んできたのだ。
十万の口を満たすための食糧は、途方もない量になる。
彼らは「天竺の豊かなジパングの街を落とせば、いくらでも現地調達できる」と高を括り、本国からの兵站線を完全に無視してこの地にやってきていた。
『……まさか。奴ら、最初からこの街を捨てる気だったのか……?』
海商の背筋に、冷たい汗が流れ落ちる。
『我々に金銀財宝という重しを食わせ、機能と食糧をすべて根こそぎ奪い去り、この空っぽの箱庭に閉じ込めるために……!?』
黄金の山に囲まれたまま、彼らはようやく己の置かれた状況を理解し始めていた。
ここは、豊かな楽園などではない。
十万の人間が、数日のうちに飢餓地獄へと叩き落とされる、計算し尽くされた「巨大な墓標」であった。
古里の街のあちこちで、まだ何も知らない兵士たちの歓声が虚しく響いている。
海を埋め尽くす千隻の軍船は、この空っぽの都市を塞ぐように停泊したまま、どこへ向かうこともできずにただ波に揺られていた。
意図的に残された「置き土産」の真の意味を知った時、旧大陸の狂犬たちがどのような末路を辿るのか。




