第122話:射程の暴力 〜無傷の撤退戦〜
2026.7.11
敵の描写を加筆修正しました。
天竺の空は、ねっとりとした熱気を孕んでいた。
古里の巨大な港から、おびただしい数の帆が海へと押し出されていく。
大内家が誇る最新鋭の巨大ガレオン船を中心とした、数千隻に及ぶ大船団である。
甲板には、膨大な帳簿の山と共に、大内商館の全職員、そして彼らと共に日本への同行を望んだ何万もの現地の避難民たちが、身を寄せ合うようにして乗船していた。
本隊の最後尾、旗艦の甲板に立つ大内家重臣・陶興房は、みるみる小さくなっていく「抜け殻」の街を、冷徹な眼差しで見つめていた。
『土地なんぞ、また後で銭を積んで買い戻せばええ。じゃが、あそこに残しておいた『置き土産』を見つけて、あの狂犬どもはどんな顔をするじゃろうのう』
興房の唇が、獰猛な笑みの形に歪む。
その時、物見櫓から張り裂けんばかりの声が響いた。
「敵影、来ます!! 水平線の彼方より、敵の先鋒艦隊!」
若武者たちが一斉にざわめき、腰の刀に手をかける。
興房が単眼鏡(望遠鏡)で海原の先を覗き込むと、そこには大小の旧式帆船が、不気味な黒い群れとなって海面を這うように近づいてくるのが見えた。
千隻に及ぶという本隊から先行してきた、数百隻の先鋒部隊だと思われる中にバルバリア海賊の旗があった。
彼らは、細川大商館によって地中海での海賊行為を邪魔された鬱憤が溜まっており、我先にと貪欲な速度で距離を詰めてこようとしていた。
「興房様! 奴ら、とてつもない数の櫂を使って、異常な速度で迫ってきております!」
若き武将の一人が、顔をこわばらせて叫ぶ。
旧大陸の海戦の定石は、今も昔も変わらない。
敵船に肉薄し、鉤縄を引っ掛けて船を固定し、武装した兵士が雪崩れ込む「白兵戦(移乗攻撃)」こそが彼らの得意とする戦法であった。
しかし、興房は微動だにせず、落ち着き払った声で言い放った。
「慌てるな。旧式の船で白兵戦を挑もうとは、いじましいことじゃ。……砲術長、距離は?」
「はっ! 敵先鋒、我が方の『第二警戒線』に間もなく到達いたします!」
「よし」
興房は単眼鏡を下ろし、ゆっくりと右手を高く上げた。
「これより、日ノ本の戦の作法っちゅうもんを、あの蛮族どもに教えてやる」
***
海風が吹き抜ける中、大内船団の後衛を担う数十隻の軍艦が、一斉にその巨大な船体を横へ向けた。
側面から突き出されたのは、堺の特区で極限まで「規格化」された、分厚い鋼鉄の大砲群である。
ダ・ヴィンチの技術がもたらした完全な真円の中ぐり加工と、職人たちが精魂込めて鋳造したブレのない真球の砲弾は、まだ少数しか配備されていないが、目の前の敵を撃退するのに十分な戦力であった。
そして、それら新型の砲弾がもたらすのは、旧大陸の常識を根底から覆す「圧倒的な射程の差」であった。
『まだじゃ。まだ引きつけい……』
興房の右手は、上がったままだ。
敵の先鋒艦隊は、まだ日本の大砲の射程にすら入っていないと錯覚している。
彼らの旧式の大砲では、この距離から撃っても砲弾は海にポチャポチャと落ちるだけだからだ。
「敵先鋒、第一警戒線を突破! 完全に射程内に入りました!」
砲術長の声が響いた瞬間、興房は高く掲げていた右手を、力強く振り下ろした。
「撃てぇえええええっ!!」
轟音。
数十隻の軍艦から、数百門の大砲が一斉に火を噴いた。
空気を切り裂く耳障りな咆哮と共に、黒い鉄球の雨が、美しい放物線を描いて天竺の空を覆い尽くす。
それはもはや「狙い撃つ」という次元のものではなかった。
統一された規格によって誤差を極限まで削り落とされた砲弾の群れは、計算し尽くされた「面」となって、はるか遠方の海面へと正確に降り注いだ。
***
敵の先鋒艦隊に砲弾が次々と降り注ぐ。
「な、なんだこれは!?」
「神よ! 奴ら、どこから撃ってきているんだ!!」
バルバリア海賊や、旧大陸の兵士、海商たちの絶叫が、砲撃の轟音に掻き消されていく。
彼らの船に積まれた旧式の大砲では、大内軍の船団には到底届かない。
反撃の手段すら持たないまま、一方的な「射程の暴力」に晒された敵艦隊は、一瞬にして阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
帆柱がへし折れ、甲板が粉砕され、火薬庫に引火した船が次々と海上で爆発を起こす。
統率を完全に失った敵の先鋒艦隊は、同士討ちや衝突を繰り返し、黒い海に沈んでいく。
「興房様! 敵先鋒、大混乱に陥っております! 陣形は完全に崩壊しました!」
若武者たちが、信じられないものを見るような目で歓声を上げる。
「今なら、反転して奴らを海の藻屑にできまする!」
しかし、興房は静かに首を横に振った。
「阿呆が。言ったじゃろうが、これは撤退戦じゃ。無駄な弾薬を使うな」
興房は冷徹な眼差しで、燃え盛る敵艦隊を見据えた。
「我らの目的は、帳簿と人を無事に逃がすことじゃ。奴らを潰して意地を見せることではない。……全船、帆を張れぇ! 呂宋へ向かうぞ!」
大内軍の船団は、敵が混乱の極みにある隙を突き、悠然と帆に風を受けて速度を上げた。
圧倒的な武威を見せつけながらも、一隻の被害も出さず、一人の兵も失うことなく。
西国武士の合理的かつ完璧な撤退戦は、こうして見事な成功を収めたのであった。
水平線の彼方へ消えていく大内船団の背後には、ただ煙を上げて燃え沈む、旧大陸の無惨な残骸だけが残されていた。




