第121話:黒い海と、西国武士の決断
2026.7.11
敵の表現を加筆修正しました。
天竺西海岸。
大内家が管轄する巨大な大商館拠点、古里。
うだるような熱帯の空気を切り裂くように、一隻の特務船が港へ滑り込んできた。
帆柱は軋み、甲板の船員たちは疲労困憊の顔色を浮かべていたが、その眼には尋常ではない焦燥が宿っていた。
特務船の船長が、港から商館の執務室へと文字通り転がり込んできた。
「ご注進! ご注進申し上げまする!!」
執務室の奥で、膨大な交易の帳簿に目を通していた大内家重臣・陶興房は、筆を止めてゆっくりと顔を上げた。
「なんじゃ、騒々しい。西方の交易船でも沈んだか?」
「そ、そうではござりませぬ! 敵影です! 沖合の水平線の彼方に、黒い影が……いや、海そのものが黒く染まっておりまする!」
息も絶え絶えに報告する船長の言葉に、周囲に控えていた若手の武将たちが顔を見合わせた。
「敵影じゃと? どこぞの海賊か?」
「規模は! 数はどれほどじゃ!」
矢継ぎ早の問いに対し、船長は絶望に震える声で絞り出した。
「大小あわせて千隻以上! 海を埋め尽くすほどの寄せ集めの大艦隊でござる! 総兵力はおそらく……十万を下りませぬ!」
その場にいた全員が息を呑んだ。
十万。
それはもはや、一つの国家を滅ぼすための、狂気を孕んだ暴力の群れであった。
『十万じゃと……?』
陶興房は、持っていた筆を静かに机に置いた。
『どこの旧大陸の国も、表立って我が日ノ本に刃向かう腹は括れとらんはず。ならば、各国のならず者や過激派、没落した海商どもが、私財を投げ打って結託した『私兵』の群れちゅうことか』
興房の脳裏に、数万の狂信者たちが血走った眼でこの古里を目指している光景が浮かんだ。
彼らは本国の兵站など無視し、ただこの天竺の拠点を奪い取り、略奪することだけを目的にやってくるに違いない。
「おのれ、旧大陸の狂信者どもめ! 我ら大内の、いや、日ノ本の武威を舐めおって!」
若き武将の一人が、腰の刀の柄に手をかけて叫んだ。
「興房様! ただちに迎撃の陣触れを! 我らが誇る大砲の連べ撃ちで、あの旧式の帆船どもを海の藻屑にしてやりましょうぞ!」
「左様! この古里の地は、大内家が心血を注いで築き上げた天竺最大の商い拠点。一歩たりとも退くわけにはいきませぬ!」
若者たちの血気盛んな声が、執務室に響き渡る。
かつての武士であれば、その言葉は正しかった。
己の領地を護り、敵を打ち払うことこそが武士の誉れであり、面目であった。
しかし、陶興房の眼光は、彼らとは全く異なる冷徹な光を放っていた。
***
「……阿呆が。貴様ら、算盤も弾けんのか」
低く、地を這うような興房の声に、若武者たちが口を閉ざす。
興房は立ち上がり、巨大な天竺周辺の海図をバンと叩いた。
「ええか、よう聞け! 我ら大内軍の駐留兵力と、この商館の警備隊を合わせたところで、千隻、十万の狂犬どもを完全に防ぎ切ることは不可能じゃ!」
「し、しかし! 防がねば、この豊かな商い場が、全て奴らに奪われてしまいまする!」
食い下がる若武者を、興房は一喝した。
「ええか! 土地は奪われても、後から銭で買い戻せる! だがな、人は二度と戻らんのじゃ!!」
執務室の空気がビリリと震えた。
「武士の面子なんぞ、その辺の野良犬にでも食わせとけ! 今この国を、いや、世界を回しちょるのは、刀ではない! 『商い網』じゃ!」
興房は、窓の外に広がる活気ある港町を指差した。
「あそこにおる熟練の職人、商いの手代、帳簿を管理する文官ども。彼らこそが、この天竺で富を生み出す『真の宝』じゃろうが! 彼らが死ねば、この古里の地なんぞ、ただの砂浜に成り下がるわ!」
興房の気迫に押され、若武者たちは言葉を失った。
幕府が数十年かけて叩き込んできた「実利」と「命の価値」という近代的な合理主義が、現場の指揮官である興房の髄まで染み込んでいたのだ。
「全軍に布告せぇ!! 完全撤退じゃ!!」
興房は刀の柄を握りしめ、雷鳴のように叫んだ。
「帳簿と人を最優先で船に乗せぃ! 荷や財宝などくれてやれ! 現地の者らにも伝えよ、我ら大内の船に乗りたい者は、一人残らず連れて行く! 誰一人として、あの旧大陸の狂犬どもに食わせてはならんのじゃ!」
「は、ははっ!!」
一瞬の躊躇の後、武将たちは一斉に駆け出していった。
商館の鐘が乱打され、古里の街全体に「完全撤退」の報が響き渡る。
***
喧騒に包まれる執務室の中で、興房は室内に残った数名の隠密部隊の長へと向き直った。
「お主らは、船には乗るな」
「はっ。命じられるままに」
「陸路を征け。大内の波斯拠点を駆け抜け、細川家が管轄しちょる地中海の拠点へ急報を届けるんじゃ」
興房は、手早く認めた密書を彼らに手渡した。
「敵の数は十万。この未曾有の軍勢が天竺を塞ごうとしちょることを、いち早く都の公方様へ、そして世界中の大商館へ知らせねばならん。よいか、見つからず、最速で駆け抜けろ」
「御意」
影のように音もなく、密使たちは部屋から姿を消した。
『さあ、旧大陸の狂犬ども。この天竺の空っぽの箱庭で、存分に踊るがええ』
窓の外では、すでに何万という人々の避難が驚異的な速度で始まっていた。
日頃から有事を想定し、軍の輸送船を商船として運用していた大内家の強大な「兵站力」が、今、人命救助のためにフル稼働していた。
陶興房は海を見据え、口元を獰猛に歪めた。
『わしらは一滴の血も流さん。ただ『商い』を止めるだけじゃ。貴様らがどれほど己の首を絞めることになるか、とくと味わわせてやるわい』
黒く染まりゆく水平線を背に、西国武士の冷徹な撤退戦の火蓋が切られた。




