第118話:箱根の壁と、大名たちの新たな戦い
東海道鉄路の開通は、日の本の血脈を劇的に変えた。
都から関東の果てまで、人や物資、そして瓦版による最新の「情報」が、かつてない速度で駆け巡るようになったのだ。
だが、その大動脈には、当時の技術ではどうしても越えられない「致命的な壁」が存在した。
天下の険と謳われる急勾配、箱根の山である。
相模国、小田原の巨大な停車場。
そこには、都から関東へ向かう「黒鉄の馬(蒸気機関車)」と、逆に関東から都へ向かう黒鉄の馬が、何両もひしめき合って停車していた。
「……やはり、ここから先は無理でおじゃるな」
特別客車から降り立った薫子が、扇子で険しい箱根の山並みを指差す。
大砲鋳造の親方である辰吉が、首に巻いた手ぬぐいで汗を拭いながら頷いた。
「ええ。平地なら何万貫の荷を引ける鉄の馬も、この急勾配じゃあ重すぎて車輪が空回りしちまう。これ以上の急な山を自力で登るにゃあ、からくりの力がまだまだ足りねえ」
視察に同行していた若い大名たちが、それ見たことかと言わんばかりに冷笑を漏らす。
「いくら鉄の化け物と言えど、天下の険には勝てぬか」
「これでは、関東の富を都へ素早く運ぶことなどできまい。ここで一度荷を降ろし、馬車に乗せ替えて山を越えるしかあるまいな」
だが、その大名たちの背後から、底知れぬ野心を秘めた笑い声が響いた。
「ふふふ……。いやいや、荷の載せ替えなどという野暮な真似はいたしませぬ」
現れたのは、この駿河・相模一帯の停車場開発を取り仕切る今川家の後見人、伊勢盛時であった。
かつて戦国大名として天下を狙うはずだった男は、今や豪華な商人の着物を纏い、片手には算盤を弾いている。
「鉄の馬が自力で山を登れぬというのなら……『山』に引き上げさせればよいのです」
「山が引き上げるじゃと?」
怪訝な顔をする大名たちを尻目に、盛時は箱根の山頂へ向かってスッと扇子を向けた。
皆が一斉に見上げると、そこには目を疑うような光景が広がっていた。
山頂の広大な平地に、山科の製鉄所で使われているような『据え置き型の巨大な蒸気からくり』が鎮座しており、そこから麓の小田原停車場へ向かって、二本の極太の『鋼鉄の索』がまっすぐに伸びてきていたのだ。
「あれは……巨大な巻き上げ機か?」
辰吉が目を丸くする。
「左様にござる」 盛時は得意げに胸を張った。
「自力で登れぬのなら、あの山頂の巨大なからくりで、鋼の綱を巻き取り、鉄の馬ごと強引に引き上げてしまえばよい。……なれど、何万貫もの鉄の塊を引き上げるには、莫大な石炭が必要となりまする。我ら商いをする者にとって、そのような無駄な費えは命取り」
盛時の商人としての計算高さに、薫子は目を細めた。
『この男、ただの力技じゃ満足しないのね。いったい何を企んでいるの?』
「ゆえに、某は考えました。いかにして、石炭の消費を削り、からくりの負担を減らすかを」
盛時の合図とともに、小田原の停車場にいる「これから山を登る機関車」の先頭に、太い鋼の綱が強固に結び付けられた。
そして同時に、山頂側でも「これから山を下る機関車」の先頭に、もう一本の綱が結び付けられたのである。
「……ッ! まさか!」
薫子が、その仕掛けの『美しすぎる物理法則』に気づき、驚愕の声を上げた。
「お気づきになられましたか、薫子様」
盛時は、ニヤリと凄惨な商人の笑みを浮かべた。
「井戸の『釣瓶』と同じ理屈にござる。登る鉄の馬と、下る鉄の馬を同時に綱で繋ぐ。……そうすれば、下る列車の『重み』が、登る列車を引っ張り上げる力へと変わる。山頂のからくりは、その均衡を少し手助けするだけの『ごく僅かな力』で済むのでござる!」
「なんという……!」
辰吉ら職人たちも、武将たちも、そのあまりにも理にかなった機構に言葉を失った。
『嘘でしょ……。位置エネルギーの相殺。現代のケーブルカーの原理を、専門的な物理学の知識もなしに、ただ「石炭代をケチる」という算盤勘定だけで導き出したっていうの!?』
薫子は、伊勢盛時という男の知性に、恐怖すら覚えた。
天下布武というリミッターを外され、資本主義という新しいルールの下で解き放たれたこの天才は、もはや誰も止められない化物へと進化していたのだ。
シュゴオオオオッ!!
山頂の据え置き型からくりが唸りを上げ、太い綱がギリギリと巻き上げられ始める。
それと同時に、小田原停車場の黒鉄の馬が、車輪を回すことなく、ズルズルと、しかし確実な速度で急勾配の山を登り始めた。
「見事なものじゃ……。なれど盛時殿」
大名の一人が、悔しまぎれに口を挟む。
「この綱で引き上げ、さらには下りの列車と息を合わせるには、どうしても『待ち時間』が生まれよう。急ぎの旅人や商人には不満が募るのではないか?」
その言葉を待っていたかのように、盛時は嬉々として算盤をチャキッと鳴らした。
「それこそが、我ら今川家にとって最大の『金脈』にござる!」
盛時は、巨大な小田原停車場の周囲に建設された、目も眩むような数の真新しい宿場町や商家を両手を広げて示した。
「山を越えるための順番待ち。……その間に、旅人たちは否応なくこの町に留まり、腹を空かせ、疲れを癒したくなる。そこで我らは、箱根から引いた『温泉宿』を提供し、停車場でしか買えぬ『名物の弁当』を売り歩くのでござる!」
盛時の言葉を裏付けるように、停車場には「小田原名物、蒲鉾の弁当はいかがかなー!」という売り子たちの活気ある声が響き渡っていた。
「鉄の馬の牽引料。温泉宿の宿泊代。そして弁当の上がり。……ここで客の足を止めさせるだけで、我らは血の一滴も流さず、諸国の富を根こそぎ奪い取ることができるのでござる。はーっはっはっは!!」
山にこだまする盛時の高笑いに、他の大名たちは青ざめ、そして次の瞬間には、血走った目で自身の領地の地図を広げ始めた。
「おのれ今川め、抜け駆けしおって! 我らも負けてはおれん! 我が領地の停車場にも、温泉を掘り、名物の弁当を作れ!」
「ええい、時刻表を調整せよ! 他国よりも我らの停車場に長く客を留まらせるのじゃ!!」
かつて、領地を広げるために槍を交え、兵の首を切り落としていた猛将たち。
彼らは今や完全に刀を捨て、いかにして自国の停車場に客を呼び込み、銭を落とさせるかという『新しい戦争(不動産・流通競争)』に、狂ったような情熱を燃やしていた。
『……平和なものね。もう誰も、血を流そうなんて馬鹿なことを考えやしないわ』
薫子は、算盤を弾きながら怒号を飛ばし合う大名たちの滑稽な姿を見つめ、心底楽しそうに優雅な笑みを浮かべた。
情報と資本の力は、日本の武士という存在の価値観を、根底から、そして不可逆的に塗り替えたのである。




