第115話:光を操る忍びと、腕木通信の奇跡
「……信じられん。釘を一本も使わずに、木材の凹凸を噛み合わせるだけで、これほど高く強固な塔を組み上げるとは」
山科から東へと伸びる真新しい鉄路。その脇に等間隔で建設中の「櫓」を見上げながら、ダ・ヴィンチは感嘆の溜息を漏らした。
「宮大工の『木組み』の技でおじゃるよ。ジパングは地震が多いゆえ、揺れを逃がす柔らかな構造が必要なのじゃ」
視察に訪れた薫子が、優雅に扇子を揺らしながら解説する。
高さ十数メートルにも及ぶ木造の塔。その頂上には、ダ・ヴィンチの設計図面通りに作られた、滑車とロープで動く「三つの巨大な木の腕」が取り付けられていた。
「史実の……いえ、南蛮の書物にあった『腕木通信』。これを数里(十数キロ)ごとに建て、頂上の腕の形を変えることで文字を作る」
薫子は塔の頂上を指差した。
「隣の塔の者は、南蛮の『望遠鏡』でそれを覗き込み、自身の塔も同じ形に変えて、さらに次の塔へリレーしていく。……これで『光』と『形』による最速の伝令網が完成するでおじゃる」
「ええ。理屈は完璧です。……しかし薫子様」
ダ・ヴィンチは少し不安げに眉をひそめた。
「この通信網は、塔に常駐する人間の『視力』と『正確な操作』、何より『暗号を瞬時に解読する知能』にすべてが懸かっています。そのような高度な訓練を受けた者を、何百人も揃えられるのですか?」
その問いに対し、薫子はふふっと意地悪く笑った。
「心配無用でおじゃる。我が国には古来より、他国に潜入して情報を集め、誰よりも速く駆け抜ける『情報伝達の専門家』が腐るほどおりますゆえ」
***
塔の最上階、狭い操作室。
そこに詰められていたのは、伊賀出身の元忍び・才蔵であった。
彼は今、黒装束ではなく、幕府の紋が入った機能的な制服に身を包み、真鍮製の精巧な望遠鏡から片時も目を離さずにいた。
『……時代は、変わっちまったな』
才蔵は望遠鏡のレンズ越しに、数里先にある隣の塔をじっと見つめながら、内心で自嘲気味に呟いた。
かつての彼は、闇に紛れ、道なき道を何日も不眠不休で走り続け、主君へ情報を届けることを至上の誇りとしていた。
人間の限界を超える修練を積み、「風より速い」と称されたこともあった。
だが、あの「黒鉄の馬(機関車)」を見た瞬間、彼の誇りは粉々に砕け散った。
どれほど鍛え抜かれた忍びの脚であっても、何日も走り続けることはできない。しかし、あの鉄の怪物は、疲労も知らず、恐るべき速度で数十トンの荷物と人間を運び続けるのだ。
『俺たち忍びの足は、もう不要になった。お役御免だ……そう思っていたんだがな』
才蔵の横には、塔の頂上にある巨大な腕を動かすための、いくつものレバーと滑車が並んでいる。
「才蔵様! 西の第二塔、腕の形が変わりました!」
助手を務める若い元忍びが叫ぶ。
「来たか! 形を読み上げろ!」
才蔵が望遠鏡を覗き込むと、遠く豆粒のように見える隣の塔の腕が、カシャリと形を変えるのがはっきりと見えた。
「主腕が斜め四十五度! 右の副腕が直角! 左の副腕が水平!」
「暗号表、第三の六! 『緊急』の合図だ!」
才蔵の顔つきが、かつて戦場を駆けていた時の鋭いものへと一変する。
彼は弾かれたようにレバーに飛びつき、自身の塔の巨大な腕を、まったく同じ形へと力強く引き絞った。
ガコンッ!!
「よし! 次の形は!?」
「主腕、水平! 副腕、両方とも下へ!」
「第七の二! 『軌道異常』!……さらに『即時停止せよ』の赤旗が上がりました!」
助手の悲痛な叫びに、才蔵の背筋に冷たい汗が伝った。
『軌道異常だと!? 昨晩の豪雨で、前方の土手でも崩れたか!』
才蔵の脳裏に、数十分前にこの塔の下を通り過ぎていった、要人を乗せた巨大な黒鉄の馬の姿が浮かんだ。
あの凄まじい質量が、もし崩れた軌道に突っ込めば、文字通り大惨事となる。
『あの鉄の化け物は、もう数里先を走っている! 人の足では絶対に追いつけねえ! だが……!』
才蔵は歯を食いしばり、腕の筋肉を軋ませながら、次々とレバーを操作して光の暗号を東の塔へリレーしていく。
『俺たちの扱う「光」なら……鉄の馬より速く、先回りできる!!』
***
シュッシュッシュッシュッ!!
東海道の真新しい軌道を、黒煙を上げてひた走る機関車。
運転台では、辰吉が汗だくになりながら蒸気釜の圧力を調整していた。
「おうおう! 今日も絶好調だぜ! このまま一気に次の駅までぶっちぎるぞ!」
「辰吉親方! 前方の信号塔(櫓)を見てくだせえ!」
助手の職人が、前方数キロにそびえ立つ木造の塔を指差した。
「ん?……なんだあ? 腕の形が『バツ印』になってるじゃねえか。それに、でっけえ赤い旗が振られてるぞ?」
辰吉は目を細めた。そして、出発前に幕府の役人から口酸っぱく言われていた規則を思い出し、ハッと顔を青ざめさせた。
「馬鹿野郎! あれは『この先に異常あり、すぐに止まれ』の合図だ!!」
辰吉は血相を変えて、全力で主蒸気弁を閉じ、巨大なブレーキレバーを手前に引き絞った。
キィィィィィィィンッ!!!
鉄の車輪が火花を散らしながら軌道と激しく擦れ合い、耳をつんざくようなブレーキ音が響き渡る。
機関車は激しく揺れながら速度を落とし、そして……土砂崩れによって完全に塞がれた軌道の、わずか数十メートル手前でピタリと停止した。
「……っはあ、助かった。あと少し遅れていたら、全員お陀仏だったぜ」
辰吉はへなへなとその場に座り込み、安堵の息を吐いた。
そして、彼らを救った遥か後方の信号塔を振り返り、深く頭を下げた。
それは、物理的な力だけではない、「情報の速度」が初めて人の命を救い、インフラを完璧なものへと昇華させた瞬間であった。




