第114話:黒鉄の血管と、算盤を持つ武士たち
西暦千五百年を目前に控えた日本列島は、未曾有の建設ラッシュに沸いていた。
山科の特別特区で量産された「工の字型」の鉄の軌道が、荷馬車や船によって全国の工事現場へと次々に運び込まれていく。
幕府の莫大な資金が投じられ、何万人もの労働者が山を切り開き、谷に橋を架け、土を盛って平らな「道」を造り出していた。
駿河(静岡県)の今川領。
後に「東海道」の要衝となるであろう、とある平野部。
「そこだ! その縄張りの杭、あと三寸右へずらせ! 軌道の中心から一分たりともズレることは許されんぞ!」
現場で怒号を飛ばしていたのは、かつては戦場を駆け巡っていたはずの今川家の武将たちである。
彼らは今、鎧兜ではなく動きやすい陣羽織を羽織り、刀の代わりに算盤と測量の縄を握りしめていた。
その中心で陣頭指揮を執っているのは、今川家の実質的な司令塔・伊勢盛時であった。
「盛時様! 第四区画の整地、完了いたしました! これより幕府の技術者どもが鉄の軌道を敷き始めまする!」
若武者が泥だらけになりながら駆け寄ってくる。
「ご苦労。……だが気を抜くな。駅の予定地を囲む『商業区画』の権利割り当ては、我ら今川が完全に掌握せねばならん。他国の商人や寺社勢力に、一寸たりとも土地をかすめ取られるなよ!」
盛時は血走った目で指示を飛ばす。
かつて、彼は隣国をいかに武力で切り取るか、敵の城をいかに落とすかという「戦」の軍略に人生を捧げてきた。
だが、薫子から「駅前開発の利権」を提示されたあの日を境に、彼の脳内の価値観は根底からひっくり返っていた。
『山の上に堅固な城を築き、兵糧を蓄える? 馬鹿げている。そんなことをしても、銭一文生み出しはしない!』
盛時は、遠くで敷設作業を進める幕府の巨大な建設部隊を見つめた。
規格化された鉄の軌道が、寸分の狂いもなく、まるで生き物のように大地に定着していく。
『あの鉄の道が完成し、黒鉄の馬が走り出せば……毎日何万という人と、山のような物資が、この駅に吐き出される。それはつまり、毎日何万という人間が、ここで飯を食い、宿に泊まり、銭を落としていくということだ』
盛時は手元の絵図面——今川家が極秘に策定した「新都市計画」の図面を強く握りしめた。
『他国の領土を血を流して奪う必要などない。我らはこの駅周辺の土地を独占し、そこに店を開く商人から場所代と税を吸い上げる。それだけで、駿河は莫大な富を築けるのだ!』
「……おのれ幕府め」
盛時の傍らにいた老齢の家臣が、忌々しげに呟いた。
「刀を算盤に持ち替えさせられ、地主の真似事とは……。これでは我ら武士の誇りは丸潰れにござる」
その愚痴を聞いた瞬間、盛時は冷たい視線を老臣に向けた。
「馬鹿を申すな。誇りで腹が膨れるか? 時代が変わったのだ。あの圧倒的な『質量の暴力(機関車)』と『資本の力』を前に、まだ槍を振り回そうなどと考えている者は、いずれ時代の波にすり潰されて消えるのみ」
盛時は不敵な笑みを浮かべ、絵図面をバサリと翻した。
「武士の新たな戦場は、ここだ。我らは日の本一の『不動産王』となり、金(資本)の力で天下を獲るのだ!」
関東へ向かう東海道、そして西の大内へと向かう西国鉄路。
「鉄の道」を受け入れた大名たちは皆、盛時と同じように、かつての「領土拡張」の野心から「駅前開発競争」という血の流れない戦争へと、完全にそのエネルギーの矛先を変えられていた。
***
同時刻。京都、室町幕府本庁舎。
将軍の執務室の壁には、日本列島の巨大な地図が掛けられていた。
そこに引かれた「東西の鉄路」を示す赤い線は、日々少しずつ、確実に伸び続けている。
「……えらい勢いやな。幕府の金庫から、毎日滝のように銭が流れていくわ」
大御所・日野富子が、報告書を見ながら呆れたようにため息をついた。
「なれど富子様。完成すれば、その銭は通行料と運賃として、永遠に幕府の金庫へ還流し続けまする。まさに『金のなる木』でおじゃりますよ」
薫子は優雅に茶をすすりながら、満足げに微笑んだ。
「せやな。それに……これで『謀反』を起こそうなんて馬鹿な大名は、もうどこにもおらんやろ」
富子が地図の赤い線を指でなぞる。
「ええ。もし駅周辺の権益に逆らい、鉄の道を塞ごうものなら……」
薫子は冷酷な光を瞳に宿した。
「幕府は即座に、その駅に向かうすべての物流と人の流れを『止める』だけにおじゃる。兵糧も、情報も、商いの利益も完全に絶たれ、その国は数日で干上がるでしょうな」
「それでも刃向かうなら、あのダ・ヴィンチとかいう南蛮人が作った『化け物(機関車)』に、大砲と鎮圧軍を満載して、数日のうちに送り込めばええだけやしな」
もはや、何万という軍勢を動員して数ヶ月かけて行軍するような、旧態依然とした「戦」は、物理的にも経済的にも完全に無意味なものとなっていた。
幕府は「鉄の軌道」という国家の血管を張り巡らせることで、日本列島を一つの巨大な生命体として統合し、その生殺与奪の権を完全に握ったのである。
「これで……物流と人の移動の革命は、ひとまずの完成を見まするな」
薫子は窓の外、遠く山科の空にたなびく黒煙を見つめた。
「ひとまず、って……まだ何か企んどるんか、薫子」
富子の呆れ顔に、薫子はふふっと扇子で口元を隠した。
「モノとヒトが鉄の馬で数日で移動できるようになれば……当然、それらを束ねる『情報』は、鉄の馬よりも早く伝えねばなりませぬ。そうでなければ、手配も商取引も追いつかなくなりまする」
「情報、やと?……まあ、そりゃあ早いに越したことはないやろけど」
「それに、もう一つ。これが一番肝心でおじゃる」
薫子は居住まいを正し、真剣な眼差しで富子を見た。
「あの重く速い鉄の馬は、急には止まれませぬ。もし前方の軌道に土砂が崩れていたり、橋が落ちていたりしても、運転する者が見つけてからでは絶対に手遅れになりまする。即座に大惨事でおじゃるよ」
「あっ……!」
富子が息を呑む。
「ゆえに、鉄の軌道の異常を最速で前後の駅に知らせ、走ってくる鉄の馬を確実に止める。……そのための『命綱』として、鉄の馬より早く情報を伝える術が絶対に必要なのでおじゃる」
「な、なるほどな……。けど、あの鉄の馬より早く、どうやって異常を知らせるんや? まさか、鳥でも使うんか?」
「いいえ。……『光』と『形』を使うのでおじゃるよ」
「は?」
きょとんとする富子をよそに、薫子の脳内にはすでに次なる国家インフラの設計図が浮かび上がっていた。
『史実のフランス革命期に活躍した、腕木通信。数十里ごとに高い櫓を建て、巨大な木の腕で形を作って、それを隣の櫓の者が望遠鏡で覗いて次々とリレーしていく仕組み。これなら、ダ・ヴィンチの機械設計と、我が国の宮大工の建築技術、それに南蛮から入ってきたガラス(望遠鏡)があれば……今この時代でも、完全に実現可能だわ!』
「鉄の道に沿って、等間隔に高い櫓を建てるのでおじゃる。晴れてさえいれば……軌道の異常も、商いの文も、京から関東までわずか数十分で伝わる魔法の伝令網となりましょうぞ」
物理的な距離をゼロにする「鉄道」と、その安全と運行を支える「光学通信網」。
二つのインフラが両輪となって初めて、国家は真の統合を果たすのだ。
室町幕府による技術的特異点の爆発は、まだ始まったばかりであった。




