第110話:関東の怒りと駅前開発の利権
京都、室町幕府本庁舎。
薫子の執務室に、今川家からの非公式な使者として一人の男が通されていた。
身なりこそ質素な家臣のものであるが、その眼光は鋭く、全身から隙のない空気を放っている。
「……して、使者殿。今川家の言い分は、この書状の通りでおじゃるな?」
薫子は、富士の神域や地盤の緩みを言い訳にした「鉄の軌道敷設の拒絶」の書状を、机の上でパチンと扇子で叩いた。
「はっ。我が主・氏親は、幕府の新たなる御事業に大層心を痛めておりまするが、何分、領地の事情が許しませぬ。どうか、当面の間は計画を見合わせていただきたく……」
使者の男が恭しく頭を下げる。
薫子は扇子で口元を隠し、目を細めた。
「ふふっ。そなた、ただの使い走りには見えませぬな。その後ろで糸を引いておる、伊勢盛時殿ご本人でおじゃりましょう?」
男の肩が、微かにピクリと動いた。
だが、すぐに顔を上げ、不敵な笑みを浮かべる。
「……これは異なことを。我が名は新九郎、しがない今川の家臣にござる」
『さすがね。肝が据わっているわ。でも、あなたのその「戦国武将としての勘」は、これからの時代にはもう通用しないのよ』
薫子は居住まいを正し、冷徹な声音で告げた。
「よいでおじゃる。盛時殿、そなたらの実質的な『拒絶』の意、しかと受け取りました。無理強いはいたしませぬ」
盛時は内心で首を傾げた。
『あっさりと引き下がっただと? あの化け物を走らせる軌道を、こんな見え透いた言い訳で諦めるというのか? 謀反の疑いをかけて、強引に兵を差し向けてくると思っていたが……』
「……それは、いかなる御思惑で?」
探るように問う盛時に、薫子は冷たい笑みを向けた。
「東海道の敷設は後回しにし、先に西の大内を繋ぐ『西国の鉄路』を敷設するまでのこと。……なれど、盛時殿。そなたは一つ、致命的な見落としをしておるでおじゃるよ」
「見落とし、と申されますと?」
「東国……関東の存在でおじゃる」
薫子は、広げられた日本地図の「関東平野」を扇子で指し示した。
「現在、関東の足利や上杉は、北の果て(アラスカ)から莫大な毛皮と黄金を持ち帰り、大層潤っておりまする。彼らが今、最も渇望しているものは何だとお思いか? ……それは、手に入れた品を、都へ瞬時に運び込むための『鉄の道』でおじゃるよ」
盛時の顔から、サッと血の気が引いた。
「もし、東海道の敷設が遅れている理由が『今川が拒否しているからだ』と関東の耳に入れば……彼らはいかが動くでおじゃろうな?」
薫子の言葉が、氷の刃のように盛時の脳髄に突き刺さる。
『……っ! まさか、幕府の軍隊ではなく、関東の連中に我らを討たせる気か!』
盛時の脳内に、最悪の図が浮かび上がった。
利益を邪魔された関東の十万の軍勢が、血走った目で駿河に雪崩れ込んでくる。それは幕府の命令ですらなく、大名たちの自発的な『強欲』による侵略だ。
「幕府は一切手を下しませぬ。……なれど、都からの圧倒的な情報と物流から取り残され、孤立し、莫大な富の道を塞がれた関東の怒りは、すべて今川家へ向かうでおじゃろう。その地政学的な絶望を、そなたの軍略で跳ね返せるかえ?」
盛時は、ギリッと奥歯を噛み締めた。
完全に盤上から叩き出された。武力ではなく、ただ「道を通さない」という事実だけで、今川家は東西から完全に孤立し、すり潰されるのだ。
『これが、これがあの女の……情報と資本の暴力か……!』
絶望に打ちひしがれ、言葉を失う盛時。
そんな彼に対し、薫子はふっと扇子を下げ、今度は穏やかな声で語りかけた。
「……という最悪の未来を回避する道も、ご用意しておりまする。鉄の道を通すことは、決して今川から奪うだけのものではありませぬ。そなたらに、莫大な『利』をもたらす話でおじゃるよ」
「莫大な、利……だと?」
薫子は、地図上の駿河と遠江に、小さな印をいくつか置いた。
「我が幕府の鉄路敷設を受け入れるのであれば……この鉄の馬が停まる『駅(停車場)』の周囲の土地の独占開発権と、そこに集まる商人からの税の徴収権を、すべて今川家に委ねましょうぞ」
「駅の、開発権……?」
「鉄の馬は、人も、物も、莫大な銭も、すべてをこの『駅』に運び込みまする。そこは新たな都となりましょう。山の上の不便な城など捨てて、駅の周りに巨大な蔵と宿場町をお造りなさい。……他国の領土を血を流して奪うより、遥かに莫大な富が転がり込むのでおじゃります」
盛時は目を見開いた。
『道を通せば軍事的要衝としての機能は失われる。だが、その代わりに……世界の富が集まる「巨大な金庫」を手に入れられるというのか!』
武士としてのプライドと、一国の存亡、そして途方もない莫大な富。
天才的な策士である盛時の頭脳は、数秒の間にすべての損益を弾き出した。
そして、彼は深く、床に額を擦り付けるようにして平伏した。
「……薫子様。今川家は、幕府の偉大なる『東海道鉄路計画』に、全面的な協力を惜しまぬ所存にござる」
「ふふっ。賢明な判断、痛み入りるでおじゃる。今後の商いが楽しみですな、盛時殿」
***
その夜。京都の今川家屋敷。
屋敷に戻った盛時は、報告を待っていた若い当主・氏親を前に、どっと疲れたように座り込んだ。
「叔父上! いかがであった!? 幕府の怒りを買ったか!?」
不安げにすがりつく氏親に、盛時は力なく笑って首を振った。
「いえ……怒りなどという生易しいものではありませぬ。我らは、気付かぬうちにお釈迦様の手のひらで踊らされていただけにござる」
盛時は、懐から薫子から渡された「駅前開発の許可状」を取り出し、卓の上に置いた。
「氏親様。……もはや、山に城を築き、兵を鍛えて他国を奪う時代は終わりました」
「終わった? 刃を交えずに、武士の世が終わったというのか?」
「ええ。あの『鉄の馬』が駆け抜けた瞬間、日本の軍略はすべて陳腐化いたしました。我ら武士が生き残る道は、もはや一つしかござらん」
盛時は、これまで一度も見せたことのない、商人のような強欲な笑みを浮かべた。
「刀を捨て、算盤を持つのです。この『駅』という新しい金脈をしゃぶり尽くし、我らは日の本一の『不動産王』になるのです!」
史実において、権謀術数を駆使して関東を切り取り、百年続く戦国時代の幕を開けるはずだった最初の風雲児・伊勢盛時。後世に『北条早雲』と呼ばれることになる男。
彼の途方もない野心とエネルギーは、薫子の用意した「情報と資本の罠」によって、戦ではなく「駅前開発競争」という全く新しいベクトルへと完全に捻じ曲げられたのである。




