第109話:東海道鉄路計画と、駿河の虎の拒絶
数日後。京都、室町幕府本庁舎の大広間。
若き将軍・足利義材が上座に座り、その両脇には大御所である日野富子と、幕府の最高実力者である薫子が控えていた。
広間の中心には、日本列島を描いた巨大な特製地図が広げられ、大広間を埋め尽くすほどの諸大名たちが車座になってそれを見つめている。
「上様、ならびに大御所・富子様。御前におわす諸大名に、幕府の新たなる国家事業を発表させていただくお許しをいただきたく存じまする」
薫子が深く頭を下げると、義材は鷹揚に頷いた。
「うむ。許す。皆の者、薫子の申すこと、しかと聞くがよい」
「ははっ」
薫子は恭しく礼をした後、諸大名へと向き直った。その静かで、よく通る声が広間に響き渡る。
「皆の者、先日の『黒鉄の馬』の力……しかと目に焼き付けたでおじゃりまするな?」
大名たちは、一様にあの圧倒的な質量と速度を思い出し、青ざめた顔で頷く。
「この度、上様ならびに富子様の御威光を以て……この特製の筆を」
薫子の合図で、役人が赤い墨をたっぷりと含んだ筆を持ち、巨大な地図の上に線を引いた。
筆は、京都を出発し、尾張、駿河、相模を抜け、一気に東国の果て……関東平野へと一直線に伸びていった。
「『東海道鉄路計画』。都から東国の果てまで、かの『黒鉄の馬』が走るための『鉄の軌道』を一本で繋ぐのでおじゃりまする」
広間が、水を打ったように静まり返った。
「これが完成すれば……上様の御命ひとつで、都から数万の兵と大砲を、たった数日で、全く疲労させることなく東国へ送り込むことが可能となりまする」
それは、日本という広大な列島が、物理的に一つの巨大な国家として統合されるという宣言であった。
大名たちの多くは、圧倒的な「インフラの暴力」を前に、ただひれ伏すしかなかった。
だが、その大広間の末席で、鋭い眼光を地図に向けている男たちがいた。
東海道の要衝である駿河・遠江を治める名門、今川氏親。
そして、氏親の叔父であり後見人を務める男、伊勢盛時……後世において「北条早雲」と呼ばれる稀代の策士であった。
***
その夜、京都に設けられた今川家の屋敷。
氏親と盛時は、人払いをし、密室で向かい合っていた。
「……叔父上。幕府のあの計画、いかが見る」
若い氏親が、不安げな声で盛時に問う。
盛時は腕を組み、苦虫を噛み潰したような顔で低く唸った。
「あれは……ただの『道』ではありませぬ。幕府の牙そのものにござる」
盛時は卓の上に置かれた湯飲みの水を指に付け、板張りの床に自領の形を描いた。
「我らの領地、駿河と遠江のど真ん中を、あの鉄の化け物が走り抜ける。それはつまり、幕府の軍隊が、いかなる関所を通ることもなく、我らの国の腹の中をいつでも好き勝手に蹂躙できるということです」
「ならば……有事の際に、その『鉄の軌道』とやらを我らの手で引き剥がし、撤去してしまえばよいのではないか? そうすれば、あの化け物も走れまい」
氏親の言葉に、盛時は重く首を振った。
「無駄にござる。幕府が莫大な鉄を費やし、強固に大地に固定する軌道。有事になってから、我らの手勢で短時間で破壊するなど物理的に不可能にござる。……それに」
盛時は目を鋭く細めた。
「幕府の敷いた軌道を一つでも傷つければ、それは即ち『謀反』の明確な証。報告が都へ届くが早いか、あの化け物が大軍を乗せて、破壊された手前の駅まで一気に押し寄せてくるが早いか。我らが山に城を築き、軍を整えるより遥かに速く、です。……自領にあの軌道を敷かせた時点で、今川家は事実上、この世から消滅いたしまする」
盛時の脳裏には、武士としての本能が強烈な警鐘を鳴らしていた。
『あの妖狐(薫子)め……。いくさなど起こさずとも、鉄の道を敷くだけで大名たちの生殺与奪の権を完全に握るつもりか!』
「断じて、我らの領地にあの軌道を敷かせるわけにはいきませぬ。何としても、はね除けねば」
「しかし叔父上! 真っ向から逆らえば、それこそ謀反と見なされてしまう!」
「ええ。ゆえに、表立って刃向かうことはしませぬ。……もっともらしい理由をつけて、実質的な『拒絶』を突きつけるのです」
***
翌日、室町幕府本庁舎。
薫子の執務室に、今川家からの非公式な使者が訪れ、そして帰っていった。
「ふふっ。あははははっ!」
使者が去った後、薫子は手元に残された書状を見て、腹を抱えて笑い出した。
「どうしたんや、薫子。今川の小童どもは、何と言うてきよった?」
奥の部屋から、日野富子が呆れたような顔で姿を現す。薫子はすぐに居住まいを正し、丁寧に頭を下げた。
「ああ、富子様。これをお聞きくだされ。今川の言い分はおおよそこうでおじゃりまする」
薫子は涙を拭いながら書状を読み上げた。
「『我らの領地は富士の神域に近く、巨大なからくりを走らせれば神の怒りを買う恐れがある。また、地盤が軟弱であり、鉄の軌道を敷くには不向きゆえ、当面は計画を見合わせていただきたい』……とのことにおじゃりまする」
富子もまた、ふっと鼻で笑った。
「神の怒りに、地盤の緩みか。見え透いた言い訳やな。要するに、自国に幕府の軍隊を通す道など造らせへん、という意地やろ?」
「ええ。間違いなく、後ろで糸を引いているのは後見人の伊勢盛時でおじゃりましょう。あの男、武士としての勘が恐ろしいほど鋭うございまする」
『さすがは戦国時代最初の風雲児、北条早雲ね。あの鉄の道がもたらす「地政学的な死」と「破壊の不可能性」を、ただ一人完璧に見抜いているわ』
薫子は内心で盛時の知性に感心しつつも、手元の書状を無造作に放り投げた。
「どうするんや? 幕府の力で脅しつけて、無理やり軌道を敷かせるか?」
富子の問いに、薫子は優雅に扇子を広げ、口元を隠しながら底意地悪い笑みを浮かべた。
「いいえ。刃など向けずとも、少し放っておけば、連中はいずれ自ら『どうか鉄の軌道を敷いておくれやす!』と泣きついてまいりまする」
「ほう?」
「天下布武という古い価値観に縛られたあの男に、『資本と情報の暴力』という新しい時代の絶望を味わわせて差し上げましょうぞ」
薫子の冷徹な瞳には、武力に頼らず戦国大名をひざまずかせる、恐るべき「経済の罠」がすでに完成していた。




