第108話:黒鉄の馬、産声を上げる
堺の郊外に極秘裏に敷設された、真っ直ぐに伸びる『工の字型』の真新しい鉄の軌道。
その上には、ダ・ヴィンチと日本の天才職人たちが総力を結集して組み上げた、巨大な鋼鉄の塊が鎮座していた。
「マエストロ! 蒸気の圧力、これ以上は危険な領域まで上がってまさあ!」
運転台でメーターを睨んでいた辰吉が叫び、傍らに立つ通訳の男が必死の形相で南蛮言葉に訳す。
「分かっています! だが、この圧倒的な質量を最初に動かすには、極限の圧力が必要なのです!」
ダ・ヴィンチは煤に塗れた顔から汗を滴らせ、震える手で真鍮製の太い蒸気弁を握りしめた。
「各部の歯車、潤滑油、問題なし! いつでもいけます!」
通訳が職人たちの報告を聞き取り、ダ・ヴィンチの耳元で叫ぶ。
『さあ……応えてくれ。私の頭脳と、ジパングの技術が産み出した、最高の結晶よ!』
***
少し離れた安全な場所に設けられた、豪華な天幕の張られた観覧席。
そこには、幕府の重鎮である薫子と日野富子。
さらには次代を担う若い大名たちや、すっかり隠居して好々爺となった細川勝元や山名宗全らの姿があった。
武将たちは、煙突から黒煙を吐き出しながら唸り声を上げる巨大な鉄の塊を、半信半疑の目で見つめている。
「薫子様。あれが『馬』に代わるからくりだそうですが……いくらなんでも大きすぎやしませぬか?」
若い大名の一人が、嘲笑交じりに鼻で笑った。
「馬車のように引っ張る獣もおりませぬし。あんな巨大な鉄の塊が、自らの力で動くなど……まやかしにしか見えませぬな」
薫子は優雅に扇子を広げ、口元を隠しながら冷ややかな笑みを浮かべた。
「ふふっ。そなたらには、あれがただの重い鉄屑に見えるのでおじゃりますか? まあ、黙って見ておくれやす」
『フフフ……。言うに事欠いて「まやかし」ですって? これから起きる質量の暴力に、せいぜい腰を抜かさないように踏ん張ることね!』
薫子は内心でオタク全開の歓喜を抑え込み、パトロンとしての尊大な態度で実験線を見下ろした。
***
「蒸気弁、開きます!!」
ダ・ヴィンチが叫び、全力で主蒸気弁のレバーを手前に引いた。
プォォォォォォォォォン!!!
腹の底まで震わせるような巨大な汽笛の音が、堺の空を引き裂いた。
「うおおっ!?」
「な、なんだこの音は!?」
観覧席の武将たちが驚いて耳を塞ぎ、後ずさる。
シュゴオオオッ!! ガコンッ!!
高圧の蒸気がシリンダーへ一気に送り込まれる。
極限まで削り出された真円の筒の中で、ピストンが凄まじい力で押し出され、その直進運動がクランクを通じて、大人の背丈ほどもある巨大な動輪へと伝わった。
ギギッ……ゴトン。
重厚な鉄の車輪が、レールとの強烈な摩擦を乗り越え、ついに一回転した。
「動いた……! 辰吉親方、さらに蒸気の量を!」
ダ・ヴィンチの指示を通訳が叫び、辰吉が汗だくになりながら蒸気弁をさらに開く。
シュッ、ゴトン。シュッ、ゴトン。
排気の音は次第に間隔を詰め、力強いリズミカルな鼓動へと変わっていく。
煙突から猛烈な黒煙と蒸気を天高く吹き上げながら、数十トンもの鋼鉄の塊が、次第に速度を上げていく。
『おおおおおっ……! 動いている! 私の……いや、我々の夢が、大地を駆けている!』
ダ・ヴィンチは運転台から身を乗り出し、顔に風を浴びながら歓喜の涙を流していた。
「やったぞおおおっ!! 走った!! ワシらの作ったからくりが走ってやがる!!」
職人たちが総立ちになり、通訳も彼らと抱き合って涙を流しながら狂喜乱舞した。
***
シュッシュッシュッシュッ!! ガタンゴトン!!
機関車は、もはや馬が全力で駆ける速度すらも超越しようとしていた。
大地を揺らす地鳴りとともに、凄まじい勢いで観覧席の目の前を通り過ぎていく。
「…………っ!!」
「ひぃっ……!」
観覧席の武将たちは、言葉を失っていた。
彼らの感情は、すでに「驚愕」から「恐怖」へと完全に塗り替えられていた。
『あ、あんな化け物が……もし戦場に現れたら……!』
『何百頭の軍馬で突撃しようと、精鋭の槍衾で待ち構えようと……あの一塊の鉄には、何の意味もない! 触れた瞬間に跳ね飛ばされ、挽肉にされるだけだ!』
武芸に秀でた武将であればあるほど、その絶望的なまでの「質量の暴力」を本能で理解し、腰を抜かさんばかりに震え上がった。
もはや、剣術も、馬術も、鉄砲ですら、あの鉄の怪物の前では虫ケラほどの意味も持たない。
中世の武士たちが何百年と信奉してきた「戦闘観」が、物理的に粉砕された瞬間であった。
隠居した山名宗全が、震える手で自分の禿げ頭を撫でながら呟いた。
「……勝元よ。ワシら、あの妖狐(薫子)に逆らわずに、おとなしく海に出ていて本当に良かったのう……」
「ええ……。あれに刃向かうなど、狂気の沙汰ですわい」
細川勝元もまた、引きつった笑いを浮かべるしかなかった。
***
「いかがでおじゃるか、皆の者」
薫子の静かな、しかしよく通る声に、蒼白になった若い武将たちがビクッと肩を震わせる。
「あれぞ、幕府の莫大な財力と、世界最高の頭脳が結実した『黒鉄の馬』でおじゃる。……あれに何十両もの荷車を繋げば、どうなるかお分かりか?」
武将たちは息を呑んだ。
「都から集めた何万もの兵と大砲を、数日のうちに、全く疲労させることなく、日の本の果てまで運ぶことができるのじゃ」
それはつまり、幕府に刃向かえば、この化け物が大軍を乗せて即座にやってくるという「絶対的な死」の宣告であった。
「さあ、富子様」
薫子は、隣で満足げに頷いている日野富子に向かって恭しく頭を下げた。
「まずはこの鉄の軌道を、都から東へ……関東の果てまで一本で繋ぎましょうぞ」
「ええ、ええ。面白そうやわ。存分にやりよし、薫子」
富子の鶴の一声が下る。
天下布武という概念すらも無に帰す、国家の形を根底から変える新たなインフラ事業。
大動脈『東海道鉄路計画』が、いまここに産声を上げたのである。




