第107話:鉄の道の錬金術
山科の工業特区は、昼夜を問わず黒煙と熱気に包まれていた。
ダ・ヴィンチと日本の職人たちによって生み出された「新型蒸気機関」は、台座の上で力強く動き続けている。
「よし! この出力を車輪に伝えれば、数十トンの鉄の塊でも間違いなく自走する!」
ダ・ヴィンチは油まみれの顔をほころばせ、通訳を介して職人たちと喜びを分かち合った。
だが、天才の頭脳はすぐに次の「現実的な壁」へと向かっていた。
「辰吉親方。機関車本体の完成は見えました。ですが……これをどこで走らせるのですか?」
通訳からダ・ヴィンチの問いを聞かされた大砲職人の辰吉が、首を傾げる。
「どこって、地面の上じゃねえのか?」
「無理です。機関車は、これまでの馬車とは比べ物にならないほど重い。土の道や石畳では、自らの重みで沈み込み、車輪が空回りしてしまう」
ダ・ヴィンチは地面に木の枝で二本の平行線を引いた。
「この重い『黒鉄の馬』を走らせるためには、沈み込まない強固な道……すなわち、どこまでも続く『鉄の軌道』が必要不可欠なのです」
その言葉を通訳から聞いた辰吉は、目を見開いて絶句した。
「て、鉄の道だと!? 冗談じゃねえぞ、南蛮の先生よ!」
辰吉は慌てて手を振った。
「機関車一両を作るのとは訳が違う。どこまでも続く鉄の棒なんて、どれだけの鉄と、どれだけの職人の手間が必要になると思ってんだ!?」
当時の鉄は、砂鉄から木炭を使って膨大な手間暇をかけて生み出される「貴重品」である。
刀や農具、大砲に使うならともかく、地面に敷き詰めるなど正気の沙汰ではなかった。
「分かっています。ですが、その鉄の道がなければ、機関車はただの重い鉄屑に過ぎないのです……!」
ダ・ヴィンチもまた、自分の要求の非現実性を理解していた。
『機関車を生み出すことはできた。だが、それを運用するための基盤(線路)を整えるとなると、もはや一技術者の領域を超えている。一国の経済を傾けかねないほどの、莫大な資源が必要だ……』
天才の情熱が、再び「時代の限界」という壁にぶつかろうとしていた。
***
数日後。
山科の特区に、幕府の公式な視察として薫子が訪れていた。
彼女はダ・ヴィンチから「鉄の軌道」の必要性と、資源的な困難さを説明する報告書を受け取っていたのだ。
「マエストロ・レオナルド。鉄の道の件、報告は読んだでおじゃるよ」
薫子は優雅に扇子を揺らしながら、困惑顔のダ・ヴィンチと辰吉を見渡した。
通訳がすかさず南蛮言葉に訳す。
「薫子様……申し訳ありません。機関車を完成させても、走らせる道がなければ……」
「何を深刻な顔をしておるのじゃ。鉄が足りぬのなら、作ればよいのでおじゃるよ」
薫子のあっけらかんとした言葉に、辰吉がたまらず口を挟んだ。
「薫子様! 恐れながら、山の砂鉄を集めてタタラを踏むにも限界がござんす! 地面に敷き詰めるほどの鉄を打つなんて、十年かかっても足りやせん!」
「辰吉。誰が『これまでと同じ作り方』をせよと言うた? そなたら、ちと頭が固いでおじゃるな」
薫子は扇子を閉じ、ふふっと笑った。
「マエストロ、辰吉。特別に、幕府の『最高機密』を見せるでおじゃる。ついて参れ」
***
薫子に連れられ、ダ・ヴィンチたちがやってきたのは、山科特区のさらに奥深く。
厳重な武装をした幕府兵たちが守る幾重もの関所を抜けた先、地図にも記されていない一角だった。
そこには、山のようにそびえ立つ、巨大な耐火レンガ造りの塔がいくつも並んでいた。
その周囲では、巨大な水車と、以前ダ・ヴィンチが見た「定置式の旧型蒸気機関」が幾台も唸りを上げ、地鳴りのような重低音で塔の内部へと暴風を送り込み続けている。
「な、なんだ、あの巨大な塔は……!?」
ダ・ヴィンチが驚きの声を上げる。彼の視線は、素早くその構造を舐め回した。
『あの炉の形……我が故郷である南蛮の初期の製鉄炉に似ている。だが、規模が異常だ。それに、現場で指示を出している職人の中には、明国や南蛮の者たちも混ざっているではないか……!』
「あれは『高炉』でおじゃる」
薫子が誇らしげに答える。通訳が、その途方もないスケールに冷や汗を流しながら言葉を紡ぐ。
「数十年前、農具の量産を始めた頃から、鉄の量産を密かに研究させておったのでおじゃる。明国や南蛮から銭に糸目をつけず引き抜いた職人たちに、我が国の陶器職人や水車大工の技を競わせ……」
薫子は、暴風を送り込み続ける定置式蒸気機関を見上げた。
「幕府の国費を湯水のように注ぎ込み、気の遠くなるような時間をかけて、ようやく育った『怪物』でおじゃるよ」
薫子の合図とともに、巨大な高炉の底から、石灰石によって不純物を分離された、ドロドロに溶けた真っ赤な鉄の川が流れ出した。
「おおおおっ……! な、なんという鉄の量だ! まるで火山の溶岩ではないか!」
ダ・ヴィンチが目を見開き、辰吉も腰を抜かさんばかりに驚愕している。
「驚くのはまだ早いでおじゃる。あちらを見よ」
薫子が扇子で指し示した先には、水車の強大な動力に繋がれた、いくつもの「巨大な鉄の転輪」が並んでいた。
ドロドロの鉄は型に流し込まれて太い棒状になり、まだ赤熱して柔らかいうちに、第一の転輪へと送り込まれる。
ズギュウウウゥゥン……!!
凄まじい地鳴りのような音を立てて、鉄の棒が転輪に噛み込まれる。
転輪を通過した鉄は、強い圧力で少し平たく引き延ばされた。
「連続圧延の転輪でおじゃる。熱いうちに、次々と隙間の狭い転輪を通していくことで、長く、均一な形に延ばしていくのじゃ。『黒鉄の馬』が走る道が必要になると思い、試作させているのでおじゃる。車輪の形や大きさを合わせておくれやす」
通訳の声を聴きながらダ・ヴィンチが凝視する先で、鉄は第二、第三の転輪を通過するたびに、みるみるうちに薄く、長く延ばされていく。
そして最後の転輪を抜けた時、そこには、ダ・ヴィンチが求めていた軌道の断面――漢字の『工』の字型――をした、長く真っ直ぐな鉄の棒が完成していた。
ジュウウウウウッ!!
完成した鉄の軌道が冷却用の水槽に落とされ、大量の水蒸気が立ち上る。
「……信じられない。人間の手で叩くことなく、巨大な鉄の塊が、あっという間に真っ直ぐな棒になっていく……」
ダ・ヴィンチは震える手で、冷却されて黒く変色したばかりの鉄に触れた。
寸分の狂いもない、均一で完璧な形。
それが、彼の目の前で、滝のように次々と生み出されていく。
『これは、突然降って湧いた魔法ではない。一人の天才のひらめきでもない……! 一国の莫大な資本と、数十年の時間が生み出した「結晶」だ!』
ダ・ヴィンチは、恐怖すら入り混じった畏敬の念で、悠然と微笑む薫子を見つめた。
「マエストロ。幕府の銭の力に、限界などおじゃらぬ」
薫子は、圧倒的な覇者の風格を漂わせながら告げた。
「そなたの『黒鉄の馬』が走る道は、我らが湯水のように銭を使い、無限に敷き詰めてみせるでおじゃる。さあ、遠慮はいらぬ。歴史を変える『車体』を、とっとと完成させておくれやす!」
通訳から伝えられたその圧倒的な宣言に、ダ・ヴィンチはもはや言葉にならない叫びを上げながら、力強く頷いた。
「……ああ! ああ、もちろんですとも!!」
天才の想像力を、一国の国家予算と数十年の蓄積が物理的に凌駕し、後押しする。
「鉄の道」という途方もないインフラの壁すらも、室町幕府の圧倒的な「資本の暴力」によって、いとも容易く突破されたのであった。




