第106話:真円の探求と、巨大中ぐり盤
山科の特別実験場に、けたたましい金属音と蒸気の吹き出す音が響き渡っていた。
「止めろ! 蒸気弁を閉じろ! 蒸気が逃げている!」
ダ・ヴィンチが頭を抱えて叫び、通訳の男が声を裏返しながら日本語で指示を飛ばす。
辰吉たち職人が慌てて弁を締めると、激しくピストンを押し出していた車輪の動きが、不自然な摩擦音を立てて徐々に止まった。
ダ・ヴィンチは熱を持った鉄のシリンダー(筒)に駆け寄り、忌々しげに拳を叩きつけた。
鋼鉄製の蒸気釜は、完全に高圧蒸気を封じ込めることに成功した。
だが、それを動力に変えるための「シリンダー」と「ピストン」の間に、致命的な問題が発生していたのである。
大砲鋳造の親方である辰吉が、首に巻いた手ぬぐいで汗を拭いながら、気まずそうに口を開いた。
「南蛮の先生よ、ワシらも腕によりをかけて筒の型を造り、磨きをかけたんだが……どうしても、内側にはわずかな歪みや凹凸ができちまう」
通訳がその言葉を訳すと、ダ・ヴィンチは深くため息をついた。
「ええ、分かっています。大砲の弾を飛ばすだけなら、多少の隙間があっても火薬の爆発力で押し出せる。ですが、蒸気を逃さず継続的な運動に変えるには、筒の内側を寸分の狂いもない『完璧な真円』にする必要があるのです」
「完璧な真円、ねえ……。外側を削るなら旋盤って手があるが、こんだけ長くて太い鉄の筒の『内側』を、奥の奥まで均一に削り出せるような道具は、今のジパングにも存在しねえぞ」
辰吉の言葉に、実験場は重苦しい沈黙に包まれた。
***
同日、京都。室町幕府本庁舎。
幕府の重鎮として多忙を極める薫子は、山科から届いた定期報告書に目を通し、執務室で小さくため息をついていた。
『やっぱり、そうなるわよね。蒸気釜の問題を解決しても、当時の技術じゃシリンダーの内側を綺麗に削れない……』
彼女は内心で歴史の知識を反芻した。
『史実の産業革命でも、ワットの蒸気機関が実用化されるまでに一番苦労したのがこの部分。ジョン・ウィルキンソンっていう鉄鋼業者が「中ぐり盤」を発明するまで、蒸気機関は使い物にならなかったのよね』
薫子は報告書を机に置き、窓の外の空を見上げた。
『でも、私が口出しするわけにはいかない。「内側を綺麗に削る機械を作れ」なんて、口で言うのは簡単だけど、それをどう実現するかは現場の天才たちに任せるしかないわ。さあ、マエストロ……あなたならこの「技術の空白」を、どうやって飛び越えるの?』
***
一方、山科の工業特区。
ダ・ヴィンチは昼夜を問わず、工場内を歩き回っていた。
水車小屋の巨大な動力。
滑車とベルトが織りなす、複雑な力の伝達。
そして、鉄の棒を高速で回転させ、刃物を当てて外側を削り出す「水力旋盤」。
彼はそれらの機械の動きを、瞬きすら忘れたかのように、血走った目で凝視し続けていた。
『筒を回して内側に刃を当てる? いや、筒が大きすぎて回転がブレる……。ならば、手作業で内側を磨くか? いや、人間の手では絶対に真円にはならない……』
天才の頭脳の中で、無数の歯車が回転し、組み合わさっては砕け散っていく。
『固定観念を捨てろ。視点を変えるのだ。回すものを……逆にする?』
その瞬間、ダ・ヴィンチの青い瞳に、稲妻のような閃きが走った。
「……そうだ。筒を回すのではない。筒を完全に『固定』するのだ!」
彼は叫び声を上げると、猛然と工房へ走り出した。
「紙だ! 紙とインクを持て!」
工房に飛び込むなり、通訳を捕まえて叫ぶ。
慌てて用意された和紙の上に、ダ・ヴィンチの羽ペンがすさまじい速度で走っていく。
それは、これまで誰も見たことのない、巨大で奇妙な工作機械のスケッチだった。
***
翌日。
ダ・ヴィンチは、辰吉をはじめとする職人たちを工房に集め、描き上がった設計図を広げた。
「辰吉親方! これを……この機械を作ってください! これさえあれば、完璧なシリンダーが完成します!」
通訳が、ダ・ヴィンチの異様な熱気を帯びた言葉を必死に訳す。
図面を覗き込んだ辰吉は、思わず息を呑んだ。
「こりゃあ……水力旋盤の『逆』じゃねえか……!」
辰吉は、鍛え上げられた職人の直感で、ダ・ヴィンチの意図を瞬時に理解した。
「その通りです! まず、鋳造した巨大な鉄の筒を、絶対に動かないように台座へ強固に固定する。そして、筒の中心に『極太の鉄の軸』を通すのです!」
ダ・ヴィンチが図面を指さし、通訳の男が身振りを交えて熱弁を振るう。
「その太い軸に『硬い鋼の刃』を取り付け、水車の強大な力で軸そのものを回転させる! 回転しながら、軸を少しずつ筒の奥へと進めていくのです!」
「なるほど……!」
辰吉が膝を打って立ち上がった。
「筒を回すからブレるんだ。筒をガチガチに固定して、真っ直ぐでぶっとい軸のほうを回しながら削り進めりゃあ……どんなに長え筒でも、刃の軌道は絶対に狂わねえ!」
「ええ! 軸の太さと刃の長さを調整すれば、筒の奥の奥まで、寸分の狂いもない『完璧な真円』をくり抜くことができるはずです!」
これこそが、工作機械の母と呼ばれる「中ぐり盤」の誕生であった。
「やりやしょう、南蛮の先生! ワシらの手で、こいつを形にしてやらあ!」
辰吉の怒号にも似た歓声に応えるように、職人たちが一斉に動き出した。
***
それから十日後。
山科の工房に、日本の職人技術の粋を集めた「巨大水力中ぐり盤」が完成していた。
強固な台座に、大砲の要領で鋳造された巨大なシリンダーが固定されている。
その中心を貫くように、極太の鋼鉄の軸が通され、そこには弥平が極限まで鍛え上げた「刃」が取り付けられていた。
「水車、繋ぎます!」
職人の合図とともに、クラッチが繋がれる。
ゴウンッ! と重たい音を立てて、巨大な軸がゆっくりと、しかし圧倒的な力強さで回転を始めた。
ギギギギギギッ……!!
硬い鋼の刃が、シリンダーの内壁を削り取る、耳をつんざくような金属音が響き渡る。
「おおお……! 削れてるぞ! 全くブレがねえ!」
辰吉が身を乗り出して叫ぶ。
回転する刃は、ミリ単位の正確さで鉄の筒の内側を削り、金属の削りカスを吐き出しながら、ゆっくりと奥へ奥へと進んでいく。
数時間後。
機械が止まり、削り終わったシリンダーの内側が布で拭き上げられた。
ダ・ヴィンチと辰吉が、固唾を呑んで筒の中を覗き込む。
そこにあったのは、鏡のように滑らかで、一切の歪みを持たない、美しき「完璧な真円の空間」だった。
「ピストンを! パッキンを巻いたピストンを入れてみてください!」
ダ・ヴィンチの震える声を通訳が伝える。
隙間を埋めるための麻布が巻き付けられ、滑りの良い獣の脂をたっぷりと塗られた鋼のピストンが、職人たちの手によって慎重にシリンダーの中へ押し込まれていく。
シュッ……。
ピストンは、シリンダーの内壁に実用レベルの密閉性を保ったまま、滑るようにスムーズに奥へと吸い込まれていった。
「……抜ける空気は、欠片もねえ。完璧だ」
辰吉の言葉に、ダ・ヴィンチは顔を覆い、感極まって涙を流した。
***
さらに数日後。
組み上げられた新型シリンダーを搭載した蒸気機関の、公式な稼働テストの日。
報告を受けた薫子は、幕府の公式な視察として厳重な護衛を伴い、実験場へ足を運んでいた。
「さあ、見せてもらいましょうか。『マザーマシン』が産み出した、新たな心臓の鼓動を」
薫子が見守る中、すぐに蒸気管が接続され、蒸気弁が開かれる。
シュゴオオオッ! ガコンッ!!
高圧の蒸気がシリンダーへ一気に流れ込み、強大な圧力で内部のピストンを力強く押し出した。
「……多少の湯気は漏れとるが、こりゃあ凄い! 凄まじい力で押し出されてるぞ! 実用に足る、大成功だ!」
辰吉が拳を突き上げて叫び、ダ・ヴィンチに向かってニカッと笑い、親指を立てた。
完全に蒸気を封じ込める完璧な密閉とまではいかないが、高圧の蒸気を力強い「前へ進む運動」に変換するには、十二分すぎる出力が得られていた。
「ああ……! 神よ、感謝します……!」
ダ・ヴィンチはその場に崩れ落ち、自らの発明が、日本の職人たちの手によって現実に顕現した奇跡に再び十字を切った。
「お見事でおじゃる。これで、蒸気の力は確かな『前へ進む力』に変わりましたな」
薫子は、歓喜に沸く工房の中心で、優雅に扇子を広げて微笑んだ。
『蒸気釜とシリンダー。心臓と筋肉が実用レベルで仕上がったわ。いよいよよ……! いよいよ、アイツが走り出すわよ!』
世界を劇的に変える「黒鉄の馬」の産声は、もう目前まで迫っていた。




