第104話:湯気の力と、天才のひらめき
数日後、山科の特別研究棟。
厳重な警備が敷かれたその部屋で、薫子は一枚の図面を机の上に広げた。
向かいに座るのは、興奮冷めやらぬ様子のレオナルド・ダ・ヴィンチである。
二人の間には、南蛮言葉に堪能な細川商館の通訳が、緊張した面持ちで控えていた。
ダ・ヴィンチは、日本特有の滑らかな和紙と、筆の書き味にすら異常なほどの執着を見せ、周囲のすべてを観察し尽くそうとしている。
「マエストロ。我が国には既に、火と水で動く『蒸気機関』というからくりがおじゃる。炭坑の排水などで使うておるが、いかんせん図体がでかく、非効率なのでおじゃる」
薫子の言葉を通訳が慎重に南蛮言葉へと変換していく。
彼女が指差したのは、巨大なボイラーを備え、シリンダーを水で冷やして動かす『定置式』の蒸気機関の設計図だった。
それは、史実における初期のニューコメン式大気圧機関に似た構造である。
「これを、荷車に載るほど小型化し、さらに高出力に改良しておくれやす。そうすれば、馬に代わる新たな『力』になるはずでおじゃる」
通訳の言葉を聞き終えたダ・ヴィンチは、目を瞬かせた。
数秒の沈黙。
彼の視線は図面に釘付けになり、やがてその青い瞳に、信じられないほどの光が宿り始めた。
『なんだ……。なんという恐ろしい機構だ。水が蒸気に変わる際の体積膨張を利用するだと? だが、同時にひどく無駄が多い……!』
ダ・ヴィンチの脳内で、凄まじい速度で思考の連鎖が爆発していた。
『シリンダー内に蒸気を送り込み、水で冷やして収縮させ、その「負圧」でピストンを引いている? だからこんなにも巨大な冷却水タンクが必要で、動作も遅いのだ。熱したものをわざわざ冷やすなど、熱効率が極めて悪い!』
彼の頭の中にあるキャンバスで、図面の構造が猛烈な勢いで解体され、再構築されていく。
『冷やして水に戻す必要などない! 強靭なボイラーで極めて高い圧力を持った蒸気を生み出し、その圧力で直接ピストンを力強く押し切ればいいのだ!』
ダ・ヴィンチは弾かれたように立ち上がった。
「紙だ! もっと巨大な紙と、新しい羽ペンを!」
ダ・ヴィンチが叫び、通訳が慌てて薫子へ伝えるより早く、彼は薫子の手元から真新しい和紙の束を奪い取るように引き寄せた。
そして、取り憑かれたように線を猛烈な速度で引き始めた。
インクの飛沫が顔に飛ぶのも構わず、彼の手は正確無比な機械の構造を紙の上に現出させていく。
『高い圧力の蒸気でピストンを押し、役割を終えた蒸気はそのまま外へ「排出」してしまえばいい! そうすれば、冷却装置は不要となり、機関は劇的に小型で、より高出力になる!』
それは、高圧蒸気を用いた近代的な機関車のメカニズムそのものだった。
『さらに、その直線の往復運動を、滑車とクランク機構に繋げば……「回転運動」に変換できる! この機械は、外部の力に頼らず「自ら車輪を回して走る」ことができるぞ!』
天才の脳内シミュレーションは、薫子の想定を遥かに超えた速度で、次の次元へと跳躍した。
薫子は、目の前で組み上がっていく緻密な設計図を見て、戦慄した。
『嘘でしょ……。私はただ「小型化と高効率化」の課題を出しただけよ? ポンプの改良をお願いしただけなのに、数分で「高圧蒸気機関車」の構造までたどり着いたっていうの!?』
これが、人類史上最高と謳われる万能の天才。
歴史の枷を外され、最高の環境を与えられたダ・ヴィンチの頭脳は、もはや後世の歴史家ですら予測不可能なバケモノじみた演算能力を発揮していた。
「……できた」
数時間後。
ダ・ヴィンチは血走った目で、インクの乾いていない巨大な設計図を掲げた。
そこには、巨大なボイラーとシリンダーを備え、力強い車輪を持つ、複雑怪奇な「鉄の塊」が描かれていた。
「見よ! これこそが、火を食らい、水を飲み、大地を駆ける『黒鉄の馬』だ!」
ダ・ヴィンチが狂喜の笑い声を上げ、設計図を抱きしめる。
通訳がその情熱的な言葉を震える声で訳した。
「この機械は、疲労を知らない! 石炭と水さえくべ続ければ、数百頭の馬よりも重い荷を、世界の果てまで運び続けるだろう! 人類は、真の動力を手に入れたのだ!」
薫子は、その完璧な図面と天才の熱狂を前に、ごくりと唾を飲み込んだ。
『……凄すぎる。鉄道網が敷かれれば、日本は物理的に一つの巨大な国家になる……!』
「素晴らしいでおじゃる、マエストロ!」
薫子もまた、抑えきれない興奮で頬を上気させていた。
「幕府のありったけの銭と職人を注ぎ込んで、この『黒鉄の馬』を現実に生み出しておくれやす!」
世紀の発明に向けた、狂気と情熱のプロジェクトが、今ここに幕を開けたのである。




