第103話:技術的特異点(シンギュラリティ)の都
数ヶ月後。京都、室町幕府本庁舎。
細川大商館を通じて南蛮から届けられた分厚い報告書を繰っていた薫子は、あるページでピタリと手を止めた。
文字を追う彼女の目が、微かに痙攣する。
そこに記された、新たに日本へ招き入れたという「一人の技術者」の名前。
それを確認した瞬間、薫子は思わず息を呑み、限界まで目を見開いた。
『……フィレンツェの、レオナルド・ダ・ヴィンチ?』
見間違いかと思い、二度、三度と文字を凝視する。
だが、そこには確かに、人類史に燦然と輝くあの万能の天才の名前が記されていた。
『……キターーーーーーッ!!!』
薫子の心の中で、万雷の拍手と歓喜の絶叫が鳴り響いた。
『嘘でしょ!? あのダ・ヴィンチが!? ルネサンスの最高傑作が、向こうから自らやってきたっていうの!? メディチ家が共同出資者に名乗りを上げたって……どういうことなのよ!』
半世紀生きてなお、彼女の中の「歴史オタク」の血がこれほどまでに沸騰したことはなかった。
史実のダ・ヴィンチは、数々の驚異的な発明の構想をノートに残した。
だが、当時の技術力不足や、気まぐれなパトロンたちに振り回され、そのアイデアの多くは紙の上だけの「夢」として終わってしまっていたはずの、早すぎた天才だ。
その規格外の頭脳が、今、圧倒的な工業力と莫大な資本を持つ「日本」の地に足を踏み入れたのである。
薫子は血相を変えて立ち上がると、報告書を握りしめ、将軍正室・日野富子の執務室へ駆け込んだ。
「富子様! 大至急、特例の予算承認をおたのもうします! 途方もない化け物が、この都へやって参りました!」
普段は冷静沈着な薫子が、鼻息を荒くして身を乗り出してきたことに、富子は目を丸くした。
「……なんやの薫子。えらい剣幕やないの。その南蛮人の職人が、どないしたん?」
「ただの職人ではおじゃりませぬ! このダ・ヴィンチという男の頭脳は、我が国に次なる『革命』をもたらしまする! これまで数十年かけて積み上げてきた工業力を、一気に百年先へと進める猛毒の劇薬におじゃります!」
薫子の狂気すら帯びた熱弁。
出会ってから数十年間、彼女がここまで一人の人間を評価し、興奮した姿を、富子は見たことがなかった。
「……そないなすごい男なんか? そのダ・なんとかいうのは」
「ええ! 彼の頭の中には、すでに未来の形が出来上がっておりまする。足りないのは、それを現実の形にする『完璧な手足』と『無尽蔵の銭』だけ。それを我らが与えれば……世界はひっくり返りまする!」
富子はふっと優雅に微笑むと、手元の白紙の稟議書に、幕府の最高権威を示す印をためらいなく押し付けた。
「……そなたがそこまで言うんやったら、間違いおへんのやろ。好きにしい」
それは、国家予算の枠すら超えた、実質的な「白紙小切手」であった。
「この男に、最高の工房と、最高の職人をつけなさい。銭の糸目はつけんでええから、存分に働かせよし」
「ははっ! 必ずや、幕府に千倍、万倍の利をもたらしてみせましょうぞ!」
薫子は深々と頭を下げ、その顔には抑えきれない邪悪で純粋な笑みが浮かんでいた。
***
その頃、長き航海を終え、細川大商館で一泊したレオナルド・ダ・ヴィンチは、言葉を失っていた。
「マエストロ・レオナルド。こちらが、あなたに用意された『専用の工房』『無制限の予算』『部下となる職人たち』にござる」
欧州から連れ帰ってきた細川家の通訳が、誇らしげに紹介する。
案内され、彼が足を踏み入れたのは、山科に連なる巨大な工業特区の一角だった。
ダ・ヴィンチは、震える足でその施設の中を歩き回った。
『なんだ、ここは……。ここは、天国か……!?』
彼の網膜に飛び込んでくるすべてが、ヨーロッパの常識を根底から凌駕していた。
川から引かれた水で回る巨大な水車。
そこから、張り巡らされた滑車と強靭な革ベルトを通じて、動力が無数の機械へと淀みなく分配されている。
彼がかつて紙の上に描いた「自動で金属を削る機械(水力旋盤)」が、ここでは数十台も並び、狂いのない真円の歯車を次々と生み出している。
隣の棟では、規格化された金属製の活字が整然と組み上げられ、「活版印刷機」が凄まじい速度で書物を量産していた。
職人たちの動きに無駄はなく、すべての部品が「基準となる一つの物差し」に従って、寸分違わず作られている。
『私の……私の夢想した世界が、すでに現実のものとして稼働している!』
ダ・ヴィンチは、削り出されたばかりの熱を持った鉄の歯車を両手で包み込み、ボロボロと涙をこぼした。
彼を生涯苦しめ続けた「技術的限界」という名の呪い。
それが、この極東の大帝国「日本」の地で、完全に解き放たれた瞬間だった。
「おおおおっ……! 素晴らしい! なんという美しさだ! すべてが計算通りに、完璧に噛み合っている!」
ダ・ヴィンチは、油と鉄の匂いが充満する工房の中心で、狂喜乱舞した。
「紙を! 大きな紙をありったけ持ってきてくれ! 筆記具もだ! 私の頭の中にあるものを、すべて吐き出さねば、頭がおかしくなってしまう!」
ダ・ヴィンチが南蛮言葉でまくし立て、通訳が慌てて日本語に訳して叫ぶと、周囲の職人たちがすぐさま真新しい和紙の束を運び込んできた。
天才の情熱が、ついに完璧な手足と莫大な資本を得た。
人類の歴史が、劇的に加速するための「特異点」が、今ここに誕生したのである。




