第102話:『職務発明』という名の悪魔の契約
数日後、フィレンツェ。
メディチ家の豪奢な応接室。
レオナルド・ダ・ヴィンチとメディチ家当主の前に座っているのは、異国の衣服を洗練された着こなしで纏う男。
細川大商館・欧州支部の使者である。
ダ・ヴィンチは興奮を抑えきれず、自身の描いた複雑な機械のスケッチや設計図の束を、机の上に勢いよく広げた。
「……これが私の頭脳にある構想の一部です。あなた方の持つ『規格化された部品』と『寸分違わぬ加工技術』さえあれば、これらはすべて現実のものとなる!」
使者は通訳を介してスケッチを眺め、その奇想天外ながらも緻密な図面に、驚きと共に深く頷いた。
「素晴らしい。我が細川大商館は、あなたの類まれなる才能を高く評価いたします。是非とも、商館の専属技術者として雇い入れたい」
しかし、使者の言葉にダ・ヴィンチの顔にはふと暗い影が落ちる。
『だが……これまでのパトロンたちと同じだとしたら? 私の設計図だけを奪い、完成した機械の利益はすべて権力者が独占するのではないか?』
天才ゆえの孤独と、これまで数え切れないほど己のアイデアを搾取されてきた経験。
彼は警戒心を含んだ、硬い声で尋ねた。
「一つ伺いたい。もし私が貴方たちの元で働き、これらの機械を完成させた場合……その『権利』と『利益』は、いったい誰のものになるのですか?」
***
細川の使者は、ふっと穏やかな笑みを浮かべた。
「ご安心くだされ、マエストロ・レオナルド。我が国には、そのような発明の権利を保護する『特許』という強固な制度がござる」
使者は懐から、美しく装丁された和紙の契約書式を取り出し、机の上に滑らせた。
「あなたが商館の金と設備を使って生み出した発明の権利は、基本的には商館と『共有』していただきます。これを我が国では『職務発明』と呼んでおります」
ダ・ヴィンチは眉をひそめた。
『権利を共有……いや、結局は実質的に雇い主に奪われるということか』
だが、使者の言葉はそこで終わらなかった。
「開発のリスクと莫大な初期費用は、我々が負う。しかし成功した暁には、その機械が生み出す莫大な利益の一部を、あなたの個人名義で『二十年間』にわたり、恒久的に支払い続けると法で定められているのです」
「なっ……!?」
ダ・ヴィンチは息を呑み、目を見開いた。
「発明者個人と、費用を負担した我々に、利益の分配金が自動的に流れ込み続ける……それが、我が国のルールにござる」
ダ・ヴィンチにとって、それは信じがたい条件だった。
『私の才能をパトロンの気まぐれではなく、国家の「法」と「資本」が絶対的に保護し、正当に評価してくれるというのか……!』
個人の才能と巨大な資本が完璧に噛み合う、彼にとっては究極の理想郷。
もはや迷う理由は、欠片も存在しなかった。
***
「……契約書を! 今すぐその契約書にサインさせてください!」
身を乗り出すダ・ヴィンチ。
しかし、使者はそこで表情を引き締め、静かに首を振った。
「マエストロ。あなたを細川商館で雇い入れること自体は、私の権限で即決できます。細かな道具や機械であれば、すぐにでも作っていただこう」
使者は、机に広げられた途方もない設計図――後に機関車や巨大な兵器へと繋がるであろう図面――を指差した。
「しかし、あなたのこの『巨大な構想』を実現するとなると、もはや一介の商館である細川の予算だけでは、到底賄いきれませぬ」
ダ・ヴィンチはハッと息を呑んだ。
「これほどの大事業となれば、本国にいる当主・細川勝元様を通じて、『幕府』の中枢にいる大元締めへ報告を上げ、特別な国家予算の承認を得ねばなりませぬ」
使者はダ・ヴィンチの目を真っ直ぐに見据えた。
「本国へ赴き、この設計図を上層部に直接プレゼンしていただきます。……しかし、どれだけの予算が承認されるかは、現時点では全くの未知数。最悪の場合、計画が却下される可能性すらある」
使者の言葉は、冷徹な現実を突きつけていた。
「何の確約もできませぬ。それでも……すべてを捨てて、我が本国へ赴く覚悟はおありか?」
『確約はない、だと……』
だが、ダ・ヴィンチの瞳に迷いはなかった。
完璧な歯車とネジを生み出した、あの途方もない工業力を持つ国。
その地を踏むことができるのなら、リスクなど取るに足らない。
「……構いません。私の設計図の価値を、必ずやその『大元締め』とやらに分からせてみせましょう。私をジパングへ連れて行ってください!」
ダ・ヴィンチの熱狂的な返答に、使者は満足げに頷いた。
「承知いたしました。では、これまでのご支援者であるメディチ家へ、我が商館からしかるべき『移籍金』をお支払いし――」
「――待て」
それまで黙ってやり取りを聞いていたメディチ家の当主・ロレンツォが、低く鋭い声で口を挟んだ。
彼は使者を真っ直ぐに見据え、不敵な笑みを浮かべていた。
「我がメディチ家は、彼を手放すための『移籍金』など受け取るつもりはない」
使者は怪訝な顔をした。
「では、引き抜きには応じられないと?」
「そうではない」
ロレンツォは机の上の設計図を指先で叩いた。
「これほどの天才の頭脳と、貴国『ジパング』の圧倒的な工業力……そして、それを下支えする国家予算。これらが結びついた時、どれほど莫大な富が生まれるか。我が一族の鼻が、強烈に匂いを嗅ぎ取っているのだ」
メディチ家当主の瞳に、ヨーロッパ全土を金融で支配する大商人の野心がギラリと光った。
「移籍金は辞退しよう。その代わり……我がメディチ家を、その国家規模の『巨大プロジェクト』の共同出資者として一枚噛ませてはもらえないだろうか?」
使者は驚きに目を見開き、そして、すぐに面白そうに口角を上げた。
「……なるほど。南蛮一の金庫番が、我が国の事業に投資すると仰るか。これは、上の者たちもさぞ喜ぶ展開になりそうだ」
こうして、世紀の天才の頭脳と、欧州最強の金融資本。
その両方を巻き込んだ形で、レオナルド・ダ・ヴィンチの日本への旅立ちが決定したのであった。




