第22話,命を決めた一票
処刑人の家に生まれ、フランス革命前後のムッシュ・ド・パリ(処刑人)であり医師であったシャルル=アンリ・サンソンの物語。
フランス史上一番多くの処刑を執行した彼の数奇な運命を描きます。
フランス革命編です。
1981年の地下室。父さんは、ランプの炎を見つめながら静かに言った。
「……王様というのは、国で一番自由な人間だと思われがちだ。だが、本当は違う。王冠というのは、国で一番美しく、重い『鎖』なんだよ。」
父さんは、手記の革表紙をそっと撫でた。
「彼らは皆、フランスという巨大な化け物の奴隷だった。王も、群衆も、そして処刑人も。」
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1792年の冬。タンプル塔での穏やかな家族の情景を目に焼き付けたあの日から、サンソンは毎日、十字架の前で祈り続けていた。
(神よ。どうか、あの優しき父親から命を奪うことだけは、思いとどまらせてください。追放でも、終身刑でもいい。人間の手で、人間の命を絶つという最悪の結末だけは――)
だが、パリの街を吹き荒れる革命の熱風は、そのささやかな祈りを嘲笑うかのように、一気に最悪の方向へと加速していく。
発端は、テュイルリー宮殿の壁の裏から発見された『鉄の秘密金庫』だった。
そこから、ルイ16世が外国の君主や亡命貴族たちと秘密裏にやり取りし、フランスへの軍事介入を頼んでいたという書簡が大量に見つかったのだ。
「王は、外国の軍隊を引き入れて我々を皆殺しにするつもりだったのだ!」
「あの男は王ではない!国を売った裏切り者、ただの『売国奴』だ!」
『疑惑』は瞬く間に確信へと変わり、街中が剥き出しの殺意で沸き立った。
もはや誰も、彼が飢えを救おうと苦悩したことなど覚えてはいない。恐怖に駆られた群衆は、すべての責任を押し付ける「生贄」を猛烈に渇望していた。
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そして1793年1月。
国民公会(議会)にて、国家反逆罪に問われたルイ16世の命運を決する、歴史的な『投票』が始まった。
議場を取り囲む数万の暴徒たちが「死刑にしなければ、お前たち議員を殺す!」と窓ガラスを叩き割らんばかりの怒号を上げる中、七百二十一人の議員たちによる、一人ずつの公開投票が三日三晩にわたって続けられた。
サンソンは自室にこもり、ただひたすらに祈りながら吉報を待った。
暴徒の脅迫があろうと、理知的な議員たちならば、あの王の高潔な魂を理解し、命まで奪うことはしないはずだ。あのタンプル塔の、温かなスープの時間を永遠に奪う権利など、誰にもないのだから。
だが、身を切るような冷たい風と共にパリの街にばら撒かれた号外は、サンソンの祈りを無惨に切り裂いた。
国民公会での最終的な採決『結果』。
死刑反対、三百六十票。
即時死刑、三百六十一票。
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「……嘘だ。」
サンソンは暗がりの中で、安っぽい紙切れを見つめて呟いた。
たった一票。
風が吹けば飛んでいくようなその薄っぺらい紙の上の『1』という数字が、フランスという巨大な天秤を傾け、あの方の命を断ち切る絶対的な正義となった。
そこには、王の従兄弟であるオルレアン公が保身のために投じた、裏切りの一票も含まれていた。だが、数字は顔を持たない。誰の葛藤も、誰の悪意も、すべて均等なインクの染みに還元されてしまう。
サンソンは紙切れをランプの火にかざして燃やし、処刑道具が置かれた保管室へと足を運んだ。
部屋の中央には、あの日、王自身が「誰も苦しまないように」と斜めの線を引いて完成させた『ギロチン』の刃が、鈍い光を放って横たわっている。
サンソンは、油を染み込ませた布で、その斜めの刃を静かに磨き始めた。
冷たい鉄の匂い。滑らかな金属の感触。
目を閉じると、ヴェルサイユの薄暗い私室で、精密な錠前をいじっていた王の姿が脳裏に浮かんだ。
(……陛下。あなたの指先には、いつも機械油が黒く染み付いていましたね。)
王は、国の頂点に立つ君主でありながら、本当はただの心優しい職人でありたかったのだろう。狂った時計の歯車を一つ一つ丁寧に外し、油を差し、誰も傷つけずに静かに組み直したかったのだ。
だが、フランスという国家は、彼にそれを許さなかった。
彼が生まれながらに被らされた王冠は、栄光の証などではなく、歴史の業と血塗られた特権で編み込まれた「呪われた鎖」だった。
王は、その重すぎる鎖を引きずりながら、民と手を取り合うために必死にもがいた。だが結局、王という絶対的な記号のまま、群衆の恐怖と国家の怒りを一身に背負わされる「生贄(奴隷)」にされてしまったのだ。
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『刃は斜めに傾斜させたまえ。そうすれば、誰も無駄な苦痛を感じずに済む。』
あの日、純粋な善意で図面に線を引いた王の、はにかむような笑顔が蘇る。
(……私もまた、同じです。)
サンソンは、傍らに掛けられた深紅のコートと真っ白な手袋を見つめた。
自分は、人間が人間を裁くことに絶望し、生きてこそ懺悔できると十字架に祈った。だが、国家から「処刑人」という鎖に繋がれている以上、その祈りを口にすることは許されない。
三百六十一という数字が「殺せ」と命じれば、私はそれに従い、敬愛するあなたの首を、あなたがデザインしたこの刃で切り落とさねばならない。
王が去り、人間が支配するようになった新しい世界。
そこには「自由」や「博愛」といった美しい言葉が溢れているが、現実はどうだ。王も、処刑人も、誰もが役割という鎖に繋がれたまま、見えない熱狂に引きずり回されているだけではないか。
サンソンは、磨き上げられた斜めの刃に、自分自身の虚ろな顔が映り込んでいるのを見た。
冷たい鉄の奥底に、感情はもう残っていない。
明日、1793年1月21日。
広場に設営された断頭台で、私は、私自身に「苦痛のない平等を」と約束してくれた王の首を刎ねる。
サンソンは真っ白な手袋を手に取り、静かに目を閉じた。
彼もまた、フランスという巨大な時計に組み込まれた、血濡れの歯車の一つでしかなかった。
窓の外では、王の死という最大の娯楽を待ちわびる群衆たちの、不気味なざわめきが夜通し響いていた。
ルイ16世は、時代が違えば名君だったという評価もあります。多数決の残酷さは王の運命を変えてしまいます。
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