第23話,誰が為の刃か
処刑人の家に生まれ、フランス革命前後のムッシュ・ド・パリ(処刑人)であり医師であったシャルル=アンリ・サンソンの物語。
フランス史上一番多くの処刑を執行した彼の数奇な運命を描きます。
フランス革命編です。
1981年の地下室。父さんは手記を閉じ、目を伏せて静かに息を吐いた。
「……群衆という獣は、自分たちが殺す相手が『怯えて命乞いをする惨めな姿』を見たがるものだ。だが、ルイ16世は違った。」
父さんの声が、わずかに震えているように聞こえた。
「彼は最後の瞬間まで、フランスの王として、いや、一人の気高き人間として、完璧なまま死んでいったんだよ。」
※※※※※※※※※※
1793年1月21日、朝。
凍てつくような濃霧に包まれたパリの「革命広場(現コンコルド広場)」は、十万人を超える群衆と、武装した国民衛兵たちによって完全に埋め尽くされていた。
「裏切り者を殺せ!」
「暴君の首を刎ねろ!」
広場を揺るがす地鳴りのような怒号と、鼓膜を破るような軍隊の太鼓の音が、ひっきりなしに鳴り響いている。
広場の中央にそびえ立つ、高く巨大な断頭台。
その最上段で、サンソンは真っ白な手袋をはめた両手を強く握り締め、彼が乗る馬車が到着するのを待っていた。
(……来るな。どうか、来ないでくれ。)
サンソンは内心で血の涙を流しながら祈っていた。群衆が暴動を起こして馬車が引き返せばいい。何かの奇跡が起きて、この狂気の儀式が中止になればいい。
だが、無慈悲な歯車は止まらない。午前十時過ぎ、重い馬車の扉が開き、一人の男が広場に降り立った。
ルイ16世。
かつてヴェルサイユで栄華を極め、タンプル塔で愛する息子に地図を教えていた、あの心優しき父親。
死を目前にした彼が、少しでも怯え、足を踏み外してくれれば、サンソンは彼を「憐れな罪人」として処理し、心を凍らせることができたかもしれない。
だが、馬車から降り立った王の姿を見た瞬間、サンソンの心は激しく打ち砕かれた。
王は、あまりにも堂々としていたのだ。
顔色は血の気を失っていたが、その歩みには一片の乱れもなく、自分に死を叫ぶ十万の群衆を、まるで我が子を見守るような慈悲深く静かな瞳で見つめていた。
それは罪人の顔ではなく、すべての懺悔を終え、神の御許へ向かう「聖人」の顔だった。
王が階段を上り、処刑台の上に立つ。
助手が王の上着を脱がせ、後ろ手に縛ろうと縄を取り出した時、王はわずかに眉をひそめた。
「縛るのか? ……縄はやめてくれ。」
王としての最後の矜持だった。だが、サンソンは震える声で、絞り出すように言った。
「……どうか、陛下。これは決まりなのです。お従いください。」
その苦痛に満ちたサンソンの声を聞いた王は、ふっと目元を和らげ、すべてを察したように静かに両手を差し出した。
「わかった。そなたの好きなようにするといい。……これが最後の試練なのだな。」
王は自ら進んで拘束を受け入れ、断頭台の先端、群衆を見下ろす縁へと歩み出た。
そして、冷たい冬の空気を胸いっぱいに吸い込み、十万の民衆へ向かって口を開いた。
「フランスの民よ!」
その声は、広場の喧騒を一瞬にして静まり返らせるほどの、不思議な透明感と威厳に満ちていた。
王は、自分を殺そうとする者たちを真っ直ぐに見つめ、最後の言葉を紡ごうとした。
「私は、私に課せられたすべての罪において、完全に無実のまま死んでいく。だが――」
その時だった。
王の言葉が群衆の心に届き、彼らの狂気が冷めてしまうことを恐れた革命軍の司令官サンテールが、軍の鼓手たちに向かって狂ったように剣を振り下ろしたのだ。
「太鼓を鳴らせ!あの男の声を打ち消せ!!」
ダラララララララッ!!
数十の軍太鼓が一斉に、耳をつんざくような轟音を鳴り響かせた。
王の言葉は、暴力的な太鼓の音の壁に激突し、広場の群衆には全く届かなくなってしまった。
「え?」「何と言ったんだ?」
群衆がざわめく中、太鼓の音だけが無情に鳴り響き続ける。
だが、処刑台の上で、王のすぐ真横に立っていたサンソンだけには、はっきりと聞こえていた。
轟音にかき消されながらも、王が最期に放った、その高潔で愛に満ちた祈りの言葉が。
『――だが、私は、私の死を企てたすべての者たちを赦そう。どうか神よ、今日流される私の血が、二度とフランスの大地に落ちることのないように!』
サンソンは、息が止まるかと思った。
最後まで不器用なこの男は、自分を殺す我々を、自分を裏切ったこの国を、最期の最期まで愛し、赦して死んでいくというのか。
(ああ、なんという……なんという気高い魂か!)
サンソンは崩れ落ちそうになる膝を必死に堪え、王をギロチンの板の上にうつ伏せに寝かせた。
首の真上には、あの日、王自身が「誰も苦しまないように」と優しさで線を引いた『斜めの刃』が、冷たく光って吊るされている。
「……陛下。」
サンソンの唇が震えた。王は板に縛られながら、斜めの刃を見上げ、もう何も言わなかった。ただ、静かに目を閉じた。
太鼓の音が、狂ったように鳴り響いている。
三百六十一という数字が、国家が、サンソンに「引け」と命じている。
(さらばだ、不器用で、誰よりも優しかった私の王よ。)
サンソンは、己の魂が音を立てて砕け散るのを感じながら、レバーを強く引いた。
ヒュンッ!
斜めの刃が重力に従って滑り落ち、完璧な角度で王の首を一瞬にして切断した。
なんの抵抗も、何の苦痛もない。王が望んだ通り、コンマ数秒の、残酷なまでに完璧な仕事だった。
ゴトッ、と血塗られた籠の中に落ちた王の首を、サンソンは拾い上げた。
重い。これが、フランスという国家の重さか。
彼はその生首の髪を掴み、広場の群衆に向かって高く掲げた。
「おおおおおおっ!!」
「共和国万歳! 自由万歳!!」
十万の群衆が、太鼓の音とともに狂喜乱舞し、帽子を空高く放り投げた。
だが、処刑台の上に立つサンソンの世界からは、すでに一切の音が消え失せていた。
真っ白な手袋を真っ赤に染めながら、アンリ・サンソンは虚ろな目で、熱狂に沸く広場を見下ろしていた。
生きてこそ懺悔できるという、彼のささやかな祈りは死んだ。
人間が人間を裁くこの世界に、神はもういない。
ここから始まるのは、王の祈りすら届かなかった、果てしない血の報復と『恐怖政治』の時代である。
その無間地獄の入り口で、サンソンはただ冷たい刃を持つだけの、完璧な「死の機械」になり果てていた。
ルイ16世の最後。
サンソンのさらなる試練が始まります。
よろしければ、ブックマーク/感想/★で応援してもらえると励みになります。




