第21話,タンプル塔の地理学
処刑人の家に生まれ、フランス革命前後のムッシュ・ド・パリ(処刑人)であり医師であったシャルル=アンリ・サンソンの物語。
フランス史上一番多くの処刑を執行した彼の数奇な運命を描きます。
フランス革命編です。
今回は記録にはありませんので完全フィクション回です。
1981年の地下室。父さんは、手記のページをめくる手を止め、ひどく優しい目をした。
「……人間というのは不思議な生き物だ。すべてを失って、死の淵に立たされて初めて、本当に欲しかったものを手に入れることがある。」
「王様は、処刑される前に何かを手に入れたの?」
僕の問いに、父さんは静かに頷いた。
「ああ。王冠という重い鎖を外されて、彼はようやく『ただの父親』になれたんだよ。」
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1792年の冬。雪の舞うパリの街にそびえ立つ、暗く冷たいタンプル塔。
国王一家はすべての権力と財産を奪われ、この塔の最上階に幽閉されていた。議会では連日、王の命運を決める「投票」についての激しい議論が交わされており、その命の灯火が風前の灯であることは誰の目にも明らかだった。
この日、サンソンは医療鞄を提げて、重い足取りでタンプル塔の階段を上っていた。
幼い王太子ルイ・シャルルが酷い風邪をこじらせたのだが、革命政府の監視兵たちはまともな医者を呼ぼうとしない。見かねた王が、「あの男ならば、敵味方に関係なく真実の口で命を診てくれる」と、処刑人であり医師でもあるサンソンを名指しで呼び寄せたのだ。
(……この階段の先に待っているのは、運命を呪い、涙に暮れる哀れな罪人の姿か。)
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サンソンは重い鉄の扉の前に立ち、小さく深呼吸をしてから鍵を開けた。
ギイィ、と鈍い音を立てて扉が開く。
だが、サンソンの目に飛び込んできた光景は、彼が想像していた凄惨な地獄とは、あまりにもかけ離れたものだった。
「ほら、シャルル。車輪の軸に少し油を差せば、また元通り走るようになる。」
「わあ、本当だ! ありがとう、お父様!」
隙間風の吹き込む質素な石造りの部屋。小さな暖炉の火のそばで、丸いテーブルを囲む家族の姿があった。
ルイ16世は、すり切れた地味な上着を羽織り、幼い王太子の壊れた木馬のおもちゃを、手持ちの小刀で器用に直してやっていた。
その向かいでは、かつて豪華絢爛なドレスに身を包んでいた王妃マリー・アントワネットが、飾りのない綿の服を着て、粗末な木皿に注がれた豆のスープを静かに取り分けている。
「あなた、スープが冷めないうちに。シャルルも、お遊びはそこまでにしておあがりなさい。」
「ありがとう、マリー。さあ、一緒に食べよう。」
王は直した木馬を息子に渡し、王妃から受け取ったスープを、ふうふうと息で冷ましてから王太子の口へと運んでやる。
そこに、かつてのベルサイユ宮殿にあった、冷たく息の詰まるような宮廷儀礼は一切なかった。王を縛り付けていた何百人もの取り巻きも、見栄も虚飾もない。
あるのはただ、互いを慈しみ合う、温かく穏やかな「家族の食卓」だけだった。
「……サンソンか。わざわざすまないね。シャルルの胸の音を聴いてやってくれないか。」
サンソンの気配に気づいたルイ16世は、顔を上げてふっと微笑んだ。
その表情には、幽閉した革命政府への憎しみも、自分を裁こうとする裁判への怒りも微塵も感じられない。すべてを神に委ね、懺悔を終えた者のような、澄み切った静謐さが宿っていた。
サンソンは無言で頭を下げ、王太子の小さな背中に耳を当てた。幸い、ただの風邪だ。持参した薬草のシロップを飲ませると、王太子は甘い味に嬉しそうに笑った。
「よかった。これですぐに良くなるよ。」
王は息子の頭を優しく撫でると、テーブルの上に古いフランスの地図を広げた。
「いいかい、シャルル。ここが我々のいるパリだ。そしてこの青い線が、海へと続くセーヌ川だよ。」
王の太く優しい指先が、地図の上の川や山脈を丁寧になぞっていく。
「お父様、春になったら、お外で本当の川を見られる?」
無邪気な王太子の問いに、部屋の空気が一瞬だけ、凍りついたように止まった。
王妃が、たまらず顔を伏せてスープの皿を見つめる。
だが、王は穏やかな笑みを崩さなかった。
彼は幼い息子の小さな両手を、自らの大きな手で包み込み、優しく、しかし確かな声で言った。
「ああ、見られるとも。フランスは本当に美しく、豊かな国だ。……いいかい、シャルル。
もし春になって、私が一緒にその川を見に行けなくなったとしても、お前はこの美しい国と、迷える民たちを愛しなさい。誰のことも、決して憎んではいけないよ。」
それは、最悪の事態を覚悟した父親が息子に残す、痛切な遺言だった。
サンソンは、胸の奥を鋭い刃物で抉り取られるような衝撃を受けた。
(……陛下。あなたはヴェルサイユの玉座に座っていた時よりも、今のほうが、ずっと幸福そうに見える。)
王冠という名の呪われた鎖を奪われ、狭い石の牢獄に閉じ込められて初めて、この心優しき男は、心から望んでいた「ただの父親」としての時間を手に入れたのだ。
サンソンは、こらえきれずに深く頭を下げ、逃げるようにその部屋を後にした。
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冷たい石の階段を駆け下りながら、彼は壁に手をつき、荒い息を吐いた。
(議会は、まさか本当に、あの温かな家族を永遠に引き裂くつもりなのか。)
家族とスープを分け合い、自分を憎む民衆すら「愛せ」と説く、この気高く優しき父親を。
あの、王自身が「誰も苦しまないように」と善意で線を引いた、冷たい斜めの刃で。
いや、それだけはあってはならない。追放でも、終身刑でもいい。不完全な人間が、人間の命を奪うという最悪の結末だけは。
(もし、万が一にも死刑の判決が下れば……私は……!)
塔の外に出ると、身を切るような冷たい雪が、サンソンの熱を持った頬に降り注いだ。
やがて議会で、王の命運を決める狂気に満ちた「投票」が始まる。
サンソンは、間もなく下される判決への恐怖と、祈るような痛切な葛藤を抱えたまま、雪の降る石畳の上で一人、ただ立ち尽くしていた。
誰しもが自由を求め
誰しもが他者におびえ
食料や裏切りへの不安を抱えていた時代。
塔に軟禁されていた国王一家の一時の幸福な時間。それがかりそめであったとしても――
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