140-2 激闘のブツダム
そこはベルンシュタイン帝国とザイード王国との境にある場所だ。
だが特に国境線が敷かれているわけではない。
その辺りはただ草原が広がっているだけだ。
最近は、この両国も関係が改善されたので、この帝国との国境付近にもザイードの遊牧民が訪れる。
「さあ、ベイミー。
今のうちに羊達の世話をやってしまいましょう。
今日は忙しくなるわ。
春を迎えた御祝いの祭りも近いのだし」
「はい、姉様」
幼いベイミーは七つ年上である十四歳になったばかりの美しい姉を眩しそうに見上げた。
来年には、この姉様も成人だ。
そのうちには御嫁に行ってしまうのだろうか。
優しくて美しい姉には今から引き合いも多い。
彼女のために、求婚時の贈り物として沢山の羊などを用意している男も多いと聞く。
彼女がいなくなってしまうのは寂しいのだが、大好きな姉には幸せになってほしいと幼心にも思っているのであった。
だが、その姉の姿が瞬時にして恐怖に変貌した。
正しくは恐怖を感じている姿にだ。
「ど、どうしたの、姉さ……」
だが姉は震えを抑えながら、厳しい顔と声で弟に命じた。
「逃げなさい、ベイミー」
「え」
「いいからっ、早く!」
それは、彼が碌でもない悪戯をして姉に叱られる時のように、彼女が彼を想って言ってくれる時の、あの顔だった。
おそるおそる振り返った彼の目に移ったものは。
『ドラゴン』
ありえない。
今まで、この辺りにそんなとんでもない怪物が現れた事など一度もなかった。
ベイミーは思わず悲鳴を上げた。
そこに佇むのは全長二十五メートルにも及ぶ、巨大でグロテスクな異形の死神。
そして、その禍々しい表情は凶悪なその心の内を表していた。
そして、そいつは吠えた。
地獄の底から響くような咆哮を放った。
彼ら、か弱い姉弟に向けて。
それはベイミーの心に深淵の淵に立たされたかのようなを絶望を齎した。
あんな神話や英雄伝に登場するような怪物を相手に、ひ弱な少年に一体何が出来るというのか。
一瞬、その衝撃に視界が灰色に染まった。
だが逃げたくても、幼い彼は足が竦んでしまって動けない。
色を失った世界で体が思うように動かない。
いや自らの体さえも灰色の彫像と化したかのようにしか見えない。
姉にしても同様の有様で、弟が無事に奴から逃げ遂せるとは彼女自身にもとても思えない。
ここは見晴らしのいい大草原の真ん中なのだから。
せめて自分が襲われている間に弟が逃げてくれればという儚い望みは、この怪物の凄まじい攻撃力の前では、おそらく無駄な希望に過ぎないのだろうと感じていた。
彼女は目を瞑り、その場にしゃがみ込んで弟を守るように抱き締めた。
だから彼は叫んだ。
「神様! ロス様。
御願い、どうか姉様だけは助けて!」
そして、それを嘲笑うかのように獲物を嬲るかのように、わざとゆっくりとブレスの態勢に入っていくドラゴン。
だが、そいつはその動きを途中で止め、顔を引き攣らせた。
それはまるで、こう言っているかのようだ。
「ありえねえ、あれは一体何なのだ」
だが子供の悲鳴が世界に轟く時、それはまるで災厄のように悪の下へ現れる。
だって、そいつの造物主たる者の職業は!
そして、その帝国側から現れて地響きを立てて疾走中のそれは、数百メートル離れたところから躊躇いなく踏切り、低めの長距離ジャンプをして、そのままドラゴンの顔めがけて亜音速のドロップキックを食らわせた。
その結果、無様に後方バク転の如くに草原を転げ回っていったドラゴンがいたのだった。
猛速で回転しながら転がるその様は、まるで地球でも荒野で頻繁に見かける魔草タンブルウィードであるかのようだ。
人間で言えば、『装備込みで』身長ニメートルほどの大柄で屈強な体躯を誇るプロレスラーが、全長二・五メートルしかない細身の大蜥蜴に蹴りを入れているような感じなのであった。
しかも普通の人間ではなく、重量六十トンにも及ぶ重戦車を楽々片手で振り回して、軽々と遥か遠くへぶん投げる程の超パワーを持つ高速サイボーグのような奴が、只の大蜥蜴へ飛び蹴りを食らわせているのに等しい。
絶対に並みのドラゴン風情が敵うような相手ではない。
唐突に色の戻って来た衝撃的な世界にて、唖然として口をぽっかりと開け、抱き合ったままその異形の救援者の後光が差したような尊い後姿を見送る姉弟。
そいつは神々しく黄金色に輝き、何故か無数の手を持ち、その手にもそれぞれ各種の武器を手にした謎の大巨人。
だが、それは紛れもなく彼らの命を救ってくれた救済者であったのだ。
『それ』は走りながら、まるで巨大なサッカーボールを蹴りまくるかのようにドラゴンをフルボッコにしていた。
哀れなドラゴンの、おそらくは哀願しているだろう調子の命乞いのような声が遠くに響いていき、そして地平線の彼方へと棚引くように消えていった。
先ほどまでの絶望と恐怖は忘れ、思わず顔を見合わせた二人。
この姉弟が心的外傷後ストレス障害 (PTSD)のような物にかかる事さえ有り得ないだろう、想定外の右斜め上を往く救済であった。
「ねえ、ベイミー。
こんな事を誰かに言っても、きっと絶対に信じてもらえないよね」
「うん。
姉様と僕だけの秘密だね。
でも、きっと偉大なるロス様の御導きなんだよ」
もちろん彼らは知らなかったのだが、彼の者の製作者こそは【主神ロスの契約者】の称号を持つ人物であり、アルバ・ロス大神殿の大司祭にして、それはもうどっぷりと各種神々の関係者そのものなのであった。
そしてまたベイミーのような子供を大量に預かっている幼稚園の園長先生なのだ。
とりあえずドラゴンをボコりながらも、その足だけは止めずに疾走する千手観音Gブツダム。
ドラゴンを思いっきりボコって子供達も救ったので気が済んだらしい。
もはや原形を留めておらず、「お前は一体何者だ」という感じになってしまったドラゴンを連れて、彼は疾走る。
別にドラゴンに向かって「ついてこい」と言ったわけではないのだが、なんとなくついてくるそいつ。
まるで、悪たれだった若造が高僧と出会って力づくで諭され、自主的に入門して付き従うかのような有様だ。
彼、千手観音は走る。
まるで、それこそが彼の存在意義であるかのように。
別に特にそのように意図して作られたわけではない。
最初に千手観音を製作したのはドワーフ国の御狐王子達だったが、それらが何故か疾走を始めたのも、突然魔核が悪性の『船橋武病』を勃発しただけで特に意味はないのだから。
そう、魔王園長に強請って、あれらには魔核が挿入されていたのだ。
その魔核を内蔵した先達仏像連中は、まだどこかで疾走しまくっているものか、未だに未帰還である。
だが、ドラゴンも走った。
飛ぶなどは邪道。
この走るという行動こそが修行。
自分が生まれ変わる道なのだと、何故か勘違いしたまま走り続けた。
苦しい。
当り前だ。
道中は休む事もなく、また飲み食いもしない。
ただひたすらに走るだけの千手観音についていっているのだから。
ドラゴンは強者と言えど、所詮は生身の魔物だ。
本来ならば、このような非生物にしか耐えられない、厳しい飲まず食わずで行われる修行のような行軍なんかについていけるはずもない。
まるで密教の荒行か何かだ。
これが人間であったならば、それこそ走る即身仏コース間違いなしといったところだ。
だが、彼は頑張った。
元々ドラゴンは耐久力や持久力が非常に優れた魔物だ。
普通はそこまで頑張らないというだけで。
彼は生まれ変わったのだ。
そして顔の腫れが引いてきたら、そこにはキラキラとした目をした、まるで生まれ変わったかの如くの聖竜がいた。
一つまた一つと彼が頑張るごとに、その輝きは増している。
そう、仏門龍ブッダ・ドラゴンの誕生である。
もちろん、千手観音はそのような事になっているとは知る由もない。
疾走こそ我が使命と信じるブツダムたるもの、後ろなんて振り向いている暇はないのだから。




