121-10 蛇足その2
「うっ、ううっ。
はっ、ここは」
「ああ、海の上だ。
あの絶望的な状況で、よくぞ命が助かったものだな。
丁度トンズラしようとして小船に乗っていたのが功を奏したようだ」
そう力なく呟く兄。
この魔の海でどれほどまでに人間が無力なものか。
それは、つい先ほど骨身に染みたばかりだった。
「なあ、兄貴。
お袋、今頃どうしているかな」
「……」
「御飯はどうしているだろう。
誰も作ってくれる人はいないし」
「……」
「具合が悪くなっていたらどうしよう」
「やめろ、今そんな事を言っても何にもならない。
俺達が現在置かれている状況をよく考えてみろ」
「ああ、あんな男の口車に乗るんじゃなかったぜ。
お袋からあんなに言われていたのに。
別れ際にもな。
あいつの誘いなんて、悪い事の誘いに決まっていたんだ。
それを俺達は。
これは天罰さ。
せめて俺達の内のどちらかが残っていれば」
「ああ、本当にそうだな。
だが陸がどっちかもわからないし、辿り着く手段も水も食料もない」
「本当にどうしよう」
それから五日間、雨も降らず魚一匹獲れやしなかった。
こういう時に限って、止めを刺しに来る魔物一匹やってこない。
昼間は容赦なく照りつける太陽、そして夜は体が凍るかと思うほどに凍てついた。
風に揺られ、いつ転覆するかわからない恐怖との戦いも余儀なくされた。
こういう時、その厳しい消耗の中で生死を分かつのは精神的な物であり生への執着心なのだが、激しい後悔に苛まされている二人にとっては、それも大変不利な状況なのであった。
「兄貴、俺なんかもう駄目っぽい」
船縁にもたれかかるような感じにして、へたりこんでいたニコラスは、とうとうギブアップ宣言を出した。
「ああ、こっちも駄目だ。
兄弟揃って、こんなところで野垂れ死にとはな。
あの世でお袋にどれだけ詫びても足りない。
くそっ」
だが、その時弟のニコラスの瞳は信じられないとでもいうように真ん丸に見開かれた。
ガクリと船縁に凭れ掛かり、力なく首を横向きに預ける感じの体勢のままで。
「兄貴っ!」
「どうした?」
「俺は疲労困憊し困窮したあまり、気が変になっちまったのかな」
「何がだ?」
「あれを見てくれよ。
あれはもしかして、俺が頭の中で作り出した幻なんだろうか」
船縁に捉まりながら半ば起き上がっている弟の問いかけに、億劫そうに起き上がり弟の振り向いた先を見た兄もまた目を瞠った。
「なんだ、あれは。
うーん、船なのか? それにしても、なんとも奇妙な船だな」
「兄貴にもあれが見えるのか。
じゃあ幻じゃあなさそうだな」
そう、それこそはあの派手派手な色彩の帆を持った『精霊船』なのであった。
貢物満載の。
子供達が調子に乗って『自分達の好物』まで山盛りに積み込んだのだ。
「もしかして、あれって食い物を載せているんじゃないのかい?」
「間違いねえ。
なんだか知らないが行ってみよう」
二人は必死に漕いだ。
ゆらゆらと揺れる海上にてオールも櫂も無く、ただその両の手のみで必死に海水を押しのけて。
そして、やっとの思いで辿り着いたそれは、豪勢な食い物の山を満載していたのだった。
二人は協力して最後の力を振り絞って、それに乗り込んだ。
「すげえ、兄貴。
食い物の山だよ」
「ああ、弟よ。
本当だ。
しかし一体何故こんな船が海のど真ん中に。
誰も乗っていないみたいだしな」
だが喉が渇きすぎて食い物が喉を通らない。
海水なんて飲んだら死んでしまう。
そこには缶ジュースやペットボトルの御茶なんかも載っているのだが、二人には開け方がよくわかっていないようだ。
「くそう、くそう」
「ねえ、もしかして喉が渇いてるの?」
「ああ、そうだよ」
そして、しばらく黙り込んでからニコラスは叫んだ。
「だ、誰だ~」
「あたし」
そう返事をして食い物の蔭から姿を現したのは、可愛らしい海坊主風の精霊だ。
人間より多少大ぶりなサイズであろうか。
「ば、化け物~」
「まあ! 失礼しちゃうわね。
ほら、あんた達。
いいから、これを飲みなさいよ」
そのボウリングのピンをもう少し丸くしたようなフォルムから、ニュウっと太い触手のような手が二本伸びて次々とペットボトルを開けてやった。
二人はもう貪るようにして御茶を飲みまくり、そして食料を口の中に詰めこんだ。
「あんたら、しばらく食べ物を口にしていなかったんでしょ。
胃が委縮してない?
もっとゆっくりと食べた方が健康的よ」
二人は生命の源を体内に収める事が出来たので人心地がついたものか、ふっとそいつに聞いてみた。
「そう言えば、お前は一体何なんだい。
そして、その、こいつは。
えーと船なのか?」
「これは精霊船よー。
そしてあたしは精霊、こう見えて上級精霊なんだから。
水の精霊だからねー、海なんかはお手の物なのよ。
これはケモミミハイム王国の亡きエレーミア王女を送る精霊流しの儀式に使われた船よ。
流しっぱなしにするのも環境的に何だから、適当に流れておいて、そのうちに船と一緒に帰ってこいって言われているんだけど」
「えーと、誰に?」
「精霊魔王様よ。
アルバトロス王国のグランバースト公爵様。
それにしても良かったわね、あんたら。
子供達ったら、もういろんな物を載せちゃうんだもの。
まさか、それがこんな形で役に立つなんてね」
「あのう、さっき帰るって言っていたけど陸へ帰れるのか?」
「そうよ、この船にはホーミング機能がついているんだから。
家に帰りたいの?
じゃあ、こっちへいらっしゃい」
精霊はグイっと腕を伸ばして二人の兄弟をひっ掴むと叫んだ。
「それでは帰還しまーす。それっ」
「うわああ」
転移魔法初体験の二人は悲鳴を上げながら意識を失っていった。




