121-9 蛇足その1
「しっかりしろ、兄貴。
気張れよ」
「俺はもう駄目だ。
弟よ、俺の事は捨て置いて、お前だけでもなんとか生きて帰ってくれ」
それは洋上を流されるオンボロな小船の上での会話だった。
水も食い物も無く、二人の心と体は究極に弱り切っていた。
何故二人は、こんな小舟で大洋の真ん中に漕ぎだしているのか。
この世界の魔物溢れる大海においては、その有様は自殺行為としか言いようがないのだが。
「馬鹿野郎、気の弱い事を言っているんじゃねえよ、兄貴。
いつもの俺をぶっとばす元気はどうしたんだよ」
「だが、俺達が二人共帰らなかったら病気のお袋はどうなるんだ」
「それは……」
そう言われて、思わず視線を暗い海に落とす弟。
そして話は五日前に遡る。
「おい、お前達。
病気の親がいて、薬を買う金が無くて大変だろう。
いい儲け話があるんだ。
一口乗らないか」
そう言って二人に誘いをかけてきたのは、顔見知りであったゴロツキのデニールだった。
「なんだ、またお前の与太話かよ。
そんな話は聞き飽きたぜ」
「まあ、そう言うな。
今度の話は確実さ。
人工を欲しがっている貴族の仕事だからな。
前金も出るぜ」
胡散臭い。
しかし、貴族の仕事で前金も出るというのは魅力だった。
今、彼らは母親の薬代で汲々しているのだ。
金は喉から手が出るほど欲しかった。
優しい母親は女手一つで彼らを立派に育ててくれたが、若い頃の無理が祟って今は酷い病気なのだ。
まず助からないだろう。
だが薬があれば少しは楽をさせられる。
「まあ、話だけでも聞いてみちゃあどうだい?
今夜説明があるんで人を集めているんだ。
こういう良い話は早い者勝ちだぜ」
顔を見合わせるロバートとニコラスの兄弟。
胡散臭い話に乗りたくはないのだが、今は薬が切れていて金策もままならなくて困り果てていたところなのだった。
「わかった。
話だけは聞こう。
だがヤバイ話はゴメンだぜ」
「ああ、わかってるわかってる。
じゃあ、今夜日暮れの刻に『港のパイプ亭』で会合だ。
遅れるなよ」
去っていく男の後姿を見ながら弟は呟いた。
「兄貴、あのゴロツキの言う事は信用ならないぜ」
「わかっている。
だが俺達には今どうしても金が必要なんだ」
もう約束の時間までには一刻といったところだろうか。
兄弟は一度家に帰る事にした。
「お袋、具合はどうだい」
「ああ、お前達。
いつも済まないね。
うっ、ぐほっ」
「だ、大丈夫かい、お袋」
「あ、ああ。
もうこんな病気なんだ。
私は何時天に召されても不思議はない。
すべては主神ロスの御心のままに。
ああ、我らがメルス様にも祈っておこうかね。
せめて、お前達には豊穣の加護があるように。
いいかい、お前達。
どんなに苦しくたって悪い事にだけは手を染めちゃあいけないよ」
そう言ってから極端に顔色の悪い母親は、すっと眠りについた。
「兄貴」
「大丈夫、眠っているだけだ。
それより」
「ああ」
そして二人は手早く質素な食事を済ませ、いつものように母親の分もベッドの脇に用意をしておき、約束の場所へと出かけた。
「ほお、お前らも来たか。
これで最後だな。
よし、親方。
全員集まりやした」
「よおし、お前ら。
今回の仕事は密輸だ。
パルシアからケモミミハイムを飛び越えて御禁制の品を運び込む」
集まった男達の間に動揺が走った。
禁制品の密輸は重罪だ。
捕まれば間違いなく首が飛ぶ。
貴族が絡んでいるのなら使い捨ての捨て駒にされる可能性もある。
「お、俺はゴメンだ。
話は聞かなかった事にする」
逃げていこうとした男が横手から二人の男に切りつけられて、情けない悲鳴をこの世での最後の遺言として、その儚い命を散らした。
血溜まりを横目に見ながら、親方と呼ばれた男は集まった男達を恫喝した。
「もう仕事は始まっているんだ。
今更逃げる事は許さん!」
青ざめる男達。
だが逃げ出せば、さっきの男の二の舞になる。
「兄貴……」
「くそっ。
なんて事だ。
考えが甘かったぜ」
その夜、港から密輸船は違法な瀬取りのために密やかに出発した。
そして無事に海上で荷物を受け取って船に積み込んだ。
だが、その時突如として海中から激しい水飛沫を上げて現われたモノがいた。
「ク、クラーケン。
馬鹿な。こんな沿岸の海で!」
しかし、そいつは現われたのだった。
そして地獄の使者の如くに、その凶悪な触手を思う様に振り回す。
足を広げたそのサイズは全長八十メートルあまりか。
それはこの世界のクラーケンとしては比較的小ぶりな物だ。
しかし、それがあまり慰めにならない事もまた事実なのであった。
むしろ、その小ささ故に、こんな近海に現れたのであろう。
密貿易中の二隻の船は、怪物の触手が唸りを上げた強力無比な一撃により見事に粉砕され、それに乗り合わせた多くの男達を海の藻屑へと変えた。




