90-1 懐かしい日本
「じゃあ、行ってくるよ」
「いってらっしゃあい」
「パパ! いってらっしゃい」
えへへ。
おっさん、ちょっとデレました。
「いってきまあす」
愛娘の可愛らしいミミをキュっとしてやり、俺はデレデレで浮き浮きな気分で出かける事にした。
そう、懐かしの日本へ。
いざ、『異世界転移』。
あの日キャンプ場へ出かけるために、何気なく出て来た自分の部屋へ向けて。
そして俺は懐かしい自分の部屋へと、ついに、ついに帰りついて……ドアを開けてから思わず両の膝を床へ着いてしまった。
ついでに両手の平も。
まだ二年、二年しか経っていないのになあ。
これまた蜘蛛の巣の大巣窟だった。
うっかりと勇んで中へ飛び込んで餌食になった俺の顔にも、べったりと蜘蛛の巣が張り付いていただろう。
巣には大量の小蝿やカメムシ、そして蜘蛛の抜け殻が絡まっていた。
何故、何故こんな事になってしまっているのか。
一応、ここは屋内なんですけど。
もしかして、時々ヤモリが換気口から入り込んでいたからフィルターの隙間が出来てしまって、そこが虫達の通り道になってしまっているのか?
そういや電燈の光に誘われた羽虫みたいなのも結構入り込んでいたよなあ。
ああいうところ、アシナガ軍曹なら余裕で通常通路として使用するよな。
うちはゴキブリがいないので、彼らが入ってくる事はないのだが。
マンションは機密性が高いので、ゴキブリのような大きな虫はまず入ってこない。
前に一度ベランダで中に入れずに干からびて死んでいた奴が一匹いたくらいだ。
あの生命力の強い生き物も、ダイオウグソクムシとは違って飢えにだけは耐えられないようだ。
冷蔵庫の中は開けて見る勇気がないので、そのまま収納してから中身を分離してアイテムボックス内のゴミ箱へ直接ぶちこんだ。
ついでに再生をかけて新品に変えておいた。
この冷蔵庫は、もうかれこれ二十年だか三十年だかわからないくらい前の大昔に、今はもう墓の下の住人となった御袋を車に乗せて、もう潰れて無くなってしまった家電量販店へ買いに行った物だ。
「この冷蔵庫はね。モーターを作っている一流企業が作っているから頑丈で、そう簡単には壊れないんですよ」
そのメーカーと提携している販売員の言葉通りに、看板に偽りなく壊れずに未だにビクともしない。
ドアに付けられたゴムの具合が多少緩くなっている気はするのだが、まだまだ使える。
少々ドアの締まりが緩くなっても、そこの汚れを綺麗に拭き取れば復活する。
電気は今時の冷蔵庫と比べてかなり余分に食っていそうだけど。
壊れなかったせいで省エネな奴に買い換えられなかったんだよな。
御蔭で何台も冷蔵庫を買い換えられるくらい電気代で損をしているはず。
頑丈過ぎる冷蔵庫も考え物だわ。
今ではこいつも親の形見になってしまったので、余計に買い替える気持ちが湧いてこない。
それにもう今更だしな。
アイテムボックスの中の親の形見コーナーへ仕舞っておくとしよう。
こいつの前に使っていた冷蔵庫なんか、サービスで客に対して滅茶苦茶な事をやっていたので嫌われまくっていて、終いにはメーカーそのものが消えてなくなってしまった。
ブランドだけは外国のメーカーに買い取られてしまっていたっけなあ。
キャンプに出掛けただけなので、当然冷蔵庫のコンセントは挿しっぱなしだったが、まったく意味を為していない。
何かの加減で停電していたのでスイッチは切れていたし~。
こういう事、たまにあるんだよなあ。
一番マズかったのは、マンションの二十四時間換気システムが切れていたことだ。
昔、こいつが切れているのに気が付かなくて、異臭がしてきて始めて気が付いた事があった。
甥っ子か、あるいは泊まりに来た友人があれこれと弄繰り回して切ってしまっていたので、スイッチが切れたままだったのだ。
二人共空調を弄っているのは見たけど、スイッチを切ってしまっていたのには気が付かなかった。
みんな、何故人の家の空調スイッチを勝手に弄る!
あれだけは絶対に弄っちゃ駄目!
せめて弄ったら後でちゃんと元通りに戻しておけよ。
どいつもこいつも皆『せんしょな奴』ばっかりだ。
トーヤとそう変わらん。
今も同じく、あの時の匂いが強烈に漂っていた。
いやもっと酷い。
最大で二年物の香しさに、俺は思わず顔を顰めた。
よくマンションの他の住人から苦情が来なかったな。
中で俺が腐乱死体になっているとか思わなかったのだろうか。
まあマンションって外まで匂いは中々漏れないけどね。
食品庫の残された缶詰類はまだ膨らんではいないようだ。
缶詰類は殆どを持っていったしな。
昔フルーツ缶詰の中身が破裂して真っ黒になったシロップが溢れて、まだ新品だった頃のマンションの床がやられてしまって往生こいた記憶がある。
あれはたぶんシロップが腐敗してガスを発生させるんだよ。
缶詰で破裂させてしまった事があるのはフルーツ缶詰だけだ。
そういう缶詰を開封すると、ボンって音がして勢いよく蓋が開いて驚くんだよな。
冷蔵庫の中身以外の食品は、あらかたキャンプというか異世界へ持っていってあったので、被害は最小で済んだようだ。
「これはまた汚い部屋だな、魔王」
「アエラグリスタ!
大きな御世話だ。
長い事、留守にしていたんだから仕方がないだろう」
「はっはっは」
くっそ、また五月蝿い『同居人』が一人増えたな。
イコマに続いて、これで二人目か。
『中』ではないが、他にAI武の奴もいるしな。
賑やかなこった。
今日は奴も何故か大人しい。
魔王の情けでスイッチを入れておいてやったんだがな。
奴にとっても日本へ来れたのは感慨深いものであるらしい。
あいつ自身は只の魔道具なので、日本に居た事はないのだが。
いや、そんな事を言っている場合じゃないんだ。
無事に帰って来られたのだから、やるべき事が満載なのだから。
「収納!」
部屋の中にあった全ての物を、蜘蛛の巣一つ残さずに収納した。
いきなり心の準備もなく床へ落ちる羽目になって慌てている蜘蛛どもには、ベランダのサッシを開けて退去を命じておいた。
せいぜい人並みの、そっちの方面の能力が敏感な甥っ子にしか通用しないようなテレパシーに強烈な魔力を乗せて。
人一倍強力な目からのオーラにも力を込めた。
俺の頑固で強烈な意思が功を奏したものか、奴らはすごすごと大人しく出て行った。
一匹だけ最後まで壁に八本の足で踏ん張りながら頑張っていた大変いじましい奴がいたのだが、そいつはライトな風魔法で吹き飛ばしておいた。
こいつらは体が軽いので、少々の風で飛ばされたって別にどうっていう事はない。
むしろ小蜘蛛の時分には、それを利用して風に舞い、空を長距離移動するくらいやってのけるような生き物だから。
どうせその辺で、すぐに新居を見つける事だろう。
最初に自分から出ていった奴らなんか、もう隣の部屋へ御邪魔しているかもしれない。
蜘蛛っていう連中は巣を張る生き物なので、奴らの天敵である鳥や雨風を凌げる上に、灯りを目指して飛んでくる餌になる小虫にも事欠かない人家が非常に大好きなので困ったものだ。
まあ別に俺の部屋がダンジョン化して、アドロスにいるような大型種の蜘蛛が巣食っている訳ではないのでいいのだが。
異世界転移を身に着けたので、今度からは気を付けないと次元を超えて俺の魔力とリンクして、あの花火会場である渓谷みたいにダンジョン化する恐れがある。
『ダンジョン部屋』は、さすがに俺も持て余す。
たまにはここへも見に来るとしよう。
ゴーレムの番人も置いておくか。
「再生」
必殺のスキルを食らって、壁も床も設備も全てが新品と化した。
何もなくて殺風景な、丸々新品のマンションの部屋になってしまったが、もうここで暮らすわけではないので丁度いい。
そのうちに調度は一新するかな。
どうせなら異世界産の調度で揃えよう。
たまにはこっちへも帰ってきたい。
もし娘を連れてきたら、きっとベランダで景色を見たがるだろう。
そう大して見るべき風景はないのだが。
市街地のマンションなので、リゾート地のような絶景でもない。
遠くに標高三百メートル程度の、そう大して見栄えのしない山が見えるくらいだ。
だが、あれがあるので我が家は津波から完全に守られているのだ。
そもそも海から十数キロは離れているんだしな。
万が一にも、あれを越えて我が家を襲うような超大型津波を引き起こすような超極大地震が来たら、日本は完全に御終いだろう。
下手をすると、そいつは小惑星衝突かポールジャンプ並みの大災害なので地球全土が終了だ。
ノアの洪水レベルの大惨事だな。
俺は久し振りに、マンションから眺める山々や田舎町の風景を堪能したが、ベランダ側のサッシから外へ出てみた。
マンションは、もうすぐ第一回目の改修工事が始まるはずだ。
確か、まだ終わっていないよな。
それまでに帰ってこれてよかった。
あれは色々と住人がやる事もあるからな。
そいつはゴーレムに頼んでおくか。
ここは地球における俺の拠点として今後も使用する予定なのだから。
親の仏壇などの重要品目はアイテムボックスに仕舞っておいたから、この部屋はいつ処分しても問題ないし。
新品同様になったから、部屋を処分する時にもリフォームしなくても高く売れるだろう。
それから自転車に乗って近所のコンビニを覗きに行ったが、まだここは営業していた。
随分とコンビニが撤退してしまって、最初は近所に四軒もあったのに、とうとうここ一軒になってしまった。
それからドラッグストアとスーパーへ行ってみた。
それはなんという事もない場所だった。
マンションから歩いて五分以内の場所の、その日常的な光景の何もかもが新鮮に思えた。
以前にバーチャル花見の時には見せてもらったが、あれとはまた違う。
実際に商品に触れたり買い物したり出来るのは、また違った気持ちだ。
「いらっしゃいませ」
「ありがとうございました。
最近顔を見ていませんでしたね」
「ああ、ちょっと他所の土地へ行っていてね」
まあ、間違っちゃいないよな。
完全に島流し状態だったけど。
「そうですか。
また来てくださいね」
「ああ、ありがとう」
そんな、長く勤務している顔馴染みの店員との何気ない会話に感動してしまったりしていた。
いつも買っていたような商品を日本円で買える。
ただ、それだけでなんとも言えない感動だった。
札で分厚い財布の中身は、突然日本を旅立ったあの日のままだ。
俺は車を出して、御袋の墓参りに行った。
こちらでも魔法は使えるのは確認してあったが、転移魔法ではなく、なんとなく普通に車で行きたかったのだ。
昔はこれが当たり前だったのだから。
いかに異世界での諸々が異常な出来事であったのか改めて思う。
「ほう。
これがお前の世界か。
我のいた世界とはまた違った趣だな」
「そりゃあ、そうさ。
あんな魔法があって魔物がいるような世界と、ここ日本が同じの訳がないだろう」
そう、ここには魔物もいないのだ。
俺は昵懇の間柄であるブラウンゴブリン達や、我が家の魔物ファミリーなどを思い出して思わず不思議な感慨に耽った。
この俺が異世界の公爵様だなんて、こちらの世界の誰に言ったって信じてもらえないだろうな。
俺は無事に異世界の神様と一緒に我が家の墓参りを終えた。
この後は、とりあえず名古屋まで出てみるか。
本当は普通に電車で行きたかったのだが時間が押しているので、俺は転移魔法で名古屋のある場所へ行き、そこで収納から自転車を出して換金ショップへと向かった。
車と違って置きっぱなしでも困らないし、自転車なら突然収納しても目立たない。
とりあえず金製品を換金しておこうと思って。
こっちじゃ向こうの金貨とかを使えないしな。
もう、すっかり向こうのずっしりと重い貨幣に馴染んでしまっているので、むしろ紙っぺらのお金に戸惑いさえある。
なんとも頼りない。
何しろ金貨以上の金を日常的に使っていたからな。
向こうじゃ最高で百億円玉なんていう馬鹿げた代物まであるのだ。
なんというか、いきなり日本円が使えない国へ行ったみたいな、あの感覚だ。
日本円は、ここのところネットでしか使っていないからなあ。
地球上には存在しない魔法金属の素材で作られている白金貨や光金貨だと、どこかの研究所へ送られてしまいそうだ。
今後の金策をどうするかは重要な課題だが、とりあえず今日使う金を手に入れておく事にしたのだ。
銀行口座からも、一通りの口座からは若干引き降ろしておいた。
放っておいて取引停止になってしまうと困る。
まだ、そんな長く放置したような時期ではないのだが。
一応ネットバンキングや口座引き落としは使っておいたが、それがない口座もあるからだ。
「いらっしゃいませ。
どのような御用向きですか?」
「金製品の買い取りをお願いしたいんだが。
とりあえず、二百万円分くらい売りたい」
「そうでございますか。
拝見いたしましょう」
それから金を量ってくれて、書類を出してくれたので記入する。
書類に記入しながら、税金とかの話が厄介だなと思いつつ。
異世界からでも、動画サイトの収入などにも、しっかりと税金がかかる。
最近は異世界にいながらにして、ネットさえ通じていれば納税処理が可能だから助かる。
まあ日本円は貴重なので、とりあえずはこれでいい。
いずれ陛下を御連れする予定なので、たくさんお金は要る。
家族も連れてきたり、あれこれと買い物をしたりもするのだ。
こちらにアルフォンス商会の支店を作らないといけないな。
あとは、いっそ異世界観光公社でも作ってみるか。
斉藤ちゃん達がツアコンをしたがるかもしれんなあ。
それから、まず馴染みの名古屋駅前に飛んだ。
丁度JRのビルに入っていく場所で凄く人通りの多いところだ。
人、人、人の群れ。
ただの日本人の尽きない流れ、かつては俺にとっても、ごく当たり前だったもの。
なんだか、それを見ているだけで感激してしまった。
何しろ、ここでは誰も武装しておらず、鎧もつけていないのだ。
緊張感の欠片も無い。
ここでは人一人が急に宙から現れても、誰も気にも留めないようだった。
もし見られたとしても、そのまま普通に歩いていれば目の錯覚だと思ってくれる。
俺もここでは普通の格好をした只の日本人の一人に過ぎないからな。
訳も無く駅前のビルとかをエスカレーターで登ってみた。
別にどうっていう事があるわけではないのだが、なんとなく。
JRビルに入って上階にある食堂街へ行く。
まだ午前中だが、謀反して行きつけのテラスのある店でビールを一杯注文する。
なんで「謀反して」と言うのか知らないが、うちの母親がよく使っていた言葉なので。
きっと謀反・反乱のように、あまり良くない事をやるというような意味なのだろう。
本来なら絶対に食べてはいけない、真夜中の背脂てんこ盛りで超こってりした大盛りラーメンとかな。
だが一杯入るともう一杯いきたくなるのは酒呑みの性だ。
しかし、こいつはドワーフなんかを大量に連れてきた日には、あっという間に破産するな。
早急に金策を考えねば!
もう冬なんで、こんなところでビールを飲んでいる馬鹿は俺だけだった。
オーダーを取りに来る店員さんも寒そうだ。
よく外の席をやってくれているもんだ。
しかし、それすらも心地よい。
そんな気分だった。
そのまま、しばしゆったりしてから、同じビル内の食堂街にある行きつけのイタリアンレストランで食事をした。
前菜とパスタにコーヒーとデザートの御値打ちセットだ。
そして白ワインを二杯。
この店で、いつも頼むコースなのだ。
「ふう。満足したなあ」
このビルへ来たら、どうしても飲み食いしたかった物を堪能した。
御蔭で、ちょっと心が落ち着いたな。
だが不意にアエラグリスタが頭の中で話しかけてきた。
「人間とは不思議なものだな。
こんな些細な事で、そこまで充足するものなのか」
「うるっせえよ。
いいだろ別に。
俺達人間は、あんたら神様とは違うんだからよ」
「まあ、その通りだ。
だが、こうして改めて人と密接に付き合ってみると興味深いものがある」
俺は異世界の神アエラグリスタと、そんな気の抜けたような会話をしながら、久し振りの日本を堪能していた。




