another: W.1-5
パァンと、乾いた音が反響する。
触れた手は、おぞましいほどに冷たかった。氷の塊を殴りつけたような感覚に、俺の甲が、ひりひりと熱をもつほどだった。
異常だ。なにもかも。
この男、どう考えたっておかしい。
掲示された条件だって、整いすぎていていっそ不気味だった。契約を交わせば最後、どんな代償を要求されるかわかったもんじゃない。
こんなわけのわからないものに、夏生を巻きこむようなリスク――俺が侵すはずがないだろう。
守るべきものがある。差しだせないものがある。魅惑的な取引に、脇目も振らず飛びつけるほど、愚かにはなれない。
「もう一度、言う。――俺はゲームの類が嫌いなんだよ」
不快さをあらわに眉をひそめて、能面をにらみ据える。
それなりの衝撃は与えたと、思っていた。
「賢い方だ」
そう言って、気にした素ぶりもなく手を引いた能面男に、拍子抜けした気分になる。
なにを、考えている?
男の目的が読めない。
俺を、ゲームとやらに誘いにきたのだと言った。だけど、その割には、妙に落ちつきはらっているというか。余裕がある、というか。
――まるで、俺がその手を打ちはらうことまで、わかっていたかのような。
警戒して身構えた俺を、真白い能面が、むかつくほどに淡々と眺めている。吟味するような風でもなく、ただ、観察している。
不躾な視線を受けて、不快感は山のようにつのっていく。気がささくれだって、舌打ちがこぼれた。
それと同時に、ホンモノのやばさも感じていた。
迂闊に動けやしない。本能でわかる。俺たちよりも上位の存在を、相手取っているのだと。
「冬也様。あなたは、試合のプレイヤーにふさわしい」
「……興味ない。さっさとお引き取り願おうか」
「いいえ。興味は、おありでしょう」
いやにハッキリと言いきった男は、ゆっくりと優雅な仕草で腰を折った。その所作は、やはり流れるように美しい。
閑散とした住宅街の裏路地には、あまりにも似つかわしくなくて。そこには、浮きでるような、異質な存在感があった。
「またお会いしましょう。いずれ、あなたが権力を求めるときに」
淡々と語られる言葉は、まるで、型にはめられた業務連絡のように虚ろだ。
個としての意思が感じられない。使いとしては有能なんだろうけど、あまりにも私情をにじませられないと、かえって不気味だ。
「なに――?」
問いかえそうとした瞬間、ひときわ強い突風が吹いて、口をつぐむ。両腕でとっさに顔をかばって、薄く目を開けた。
コートの袖がバタバタと暴れて、目障りだ。かろうじて路地を見下ろすのが精一杯で、向こうでなにが起こっているのか、わからない。
……なんなんだ、一体。
風がおさまると同時に腕を下ろす。開けた視界に目を凝らしても――やはり、男の姿はそこになかった。
こつぜんと消え失せたその場所には、両わきを壁に固められた路地が続くだけ。現れたときと同じだ。なんの気配もない。
逃げ場なんて、ないのに。
まっとうな物理法則なんざ、通用しないってわけか。薄々感づいてはいたけど、めちゃくちゃな野郎だ。皮肉に口の端をつり上げる。
非日常からの招待状……ね。
受けとるつもりはないけど、そりゃあ魅惑的に決まってる。見透かされているようで腹が立つが、あの男の言うとおり、心は沸きたった。
『興味は、おありでしょう』。
それがなんだ。揺さぶるものがあったのは否定しない。だけど、それでも俺は。
「九条くん?」
不意に思考をさえぎったハイトーンな声。どことなく隔絶されていた路地には、いつのまにか日常が戻っていた。
導かれるようにふり向いて、すこし目をみはった。
「妹尾……」
路地の入り口に、見覚えのあるクラスメイトの姿があった。
あまり話したこともないけど、名前くらいは知っている。たしか、わりと活発なタイプで、ときどき灰李と話してて……。
分厚いコートを着こんでたたずむ少女は、不思議そうに首をかしげていた。
「家、こんな方だっけ? いつもこんなところ通るの?」
「ああ、……図書館、寄ろうかと思って。妹尾こそ、どうしてここに」
とっさに、近隣の施設を思い浮かべて、話をつくろう。
「私、この近くだから。そういえば抜け道だったね。滅多に人なんか通らないもん、ビビったあ」
無邪気に笑いながら、妹尾は胸を抑えるようなジェスチャーをした。
「九条くん、今日はひとり? 渡部くんは?」
「ああ、灰李は夏生とゲーセン。いつもみたく。俺は、ちょっと……延滞図書返しに」
「延滞したの?」
妹尾が、きょとんと目を丸くする。意外だと言いたいんだろう。クラスでは、俺は品行方正な優等生で通ってるから。
まあ、多少の意外性はあったっていい。信憑性を増すひとつのエッセンスになる。
だめ押しに、かすかな苦笑を浮かべて、補足する。
「俺じゃなくて灰李ね。あいつ、レポートの資料ゲーセンに置き忘れたんだ。見つかったから、ついで」
「それは……渡部くんらしいなあ……」
「でしょ?」
つらつらと並べたてた適当な都合を、妹尾は疑うことなく信じているようだった。
あながちすべてが嘘というわけでもないし。
灰李が図書を延滞しているのは事実だし、それが俺の手にあるのも本当。灰李は存在自体忘れてしまっているみたいだから、そのうち返そうとは思っていた。
それが、今日ではないだけだ。
深くつっこまれれば別だけど、疑いをもたれない程度にごまかせれば上々。不都合はない。
たぶん、妹尾自身は俺に、たいした興味を持っていない。前から感じてることだけど、必要だから情報を集めてる観察対象って雰囲気がする。
俺がひとりでいるときに話しかけてくることは、ほとんどない。
だから、すこし油断していた。
「それは?」
近くに寄ってきた妹尾が、俺の足もとを指し示す。見下ろしても、なにもない。いや、――後ろか。
「そこ、なんか落ちてるけど――?」
指先をたどった先に、白く盛り上がった塊が落ちていた。妹尾の位置からはよく見えないんだろうけど、俺からは、はっきりとわかる。
アスファルトの上に、能面。
細く弧を描いた目に、性差を感じないふくよかな輪郭。うすら笑んだ唇。あまたの表情を内包する、無表情。
凹凸のみで表された、色のない面だ。白一色のそれは、先ほどの男が身につけていたものにピタリと一致する。
ぞくりと、鳥肌がたった。寒さとは別に、身体が震えた。
「なんだろ……」
怪訝そうに声をあげた妹尾が、手を伸ばす。拾おうとしているのか、地に伏せる能面へ向けて、一直線に。
身体の前傾にあわせて、彼女の髪がさらりと流れ落ちた。
――だめだ。
その手を、思わず払いかけた。
すんでのところで思いとどまって、変わりに手首を捕まえる。
「……ごめん、妹尾。道、わかんなくなっちゃって」
ごまかせ。この際なんでもいいから、ここを離れろ。
妹尾は、戸惑っているようだった。
「え、あ……うん? 図書館、だっけ」
「いや、実は帰りなんだ。ゲーセンいかなきゃならないんだけど」
「ああ、夏生ちゃん」
「そう。灰李と二人、回収しに」
途中まで、案内してくれない?
嫌味のない笑顔を意識しながら、彼女の腕を引いた。




