another: W.1-4
ひと気のない路地裏を、風が吹きぬける。無音。……そう、人の気配は、まるでないのだ。それでも、いつかと同じ不快感が絶えず湧きあがる。
夕焼けが照らす一方通行の道を、ブロック塀が囲んでいる。両脇に立ち並ぶ家。壁沿いにいった、曲がり角。周囲を流しみて、居場所の見当をつける。
これだけハッキリと突きささってくる視線だ。恐らく距離は近い。移動中も、継続してつきまとってきた。とっくに屋内の線は消えている。
だったら考えられるのは、先ほど通りすぎた角の物陰くらいじゃないか?
特別なスキルを持ってるわけじゃないから、絶対とは言えないけど。視線の強さに反して、まったく存在感の掴めない相手に、不気味さがつのる。
角を意識しながら、もう一声、落とす。
「もう一週間だ。いい加減にしないと出るとこ出るよ。正直、こっちもうんざりしてる」
できれば、面倒は避けたいところだけど。いざとなったら手段は選ばない。警察に駆けこむことも辞さないつもりだと、宣告する。
つむじ風が落ち葉を巻きあげる。かすれた音が鼓膜を打った。肌寒さを感じて、片手でコートの襟を寄せた。
頭は冷めている。思考はいつも通り、クリアだ。だけど、妙に落ちつかない。――なんだ? なにがこんなにも、胸をざわつかせる?
鞄を握る左手に、力がこもる。にじみ出る汗で、手のひらが湿った。焦るな。不可解な違和感に目をつぶれば、さして珍しいことでもないだろう。
「っ……!」
弾かれたように振りかえった。物陰を睨みすえる。
いる。――確実に、なにかが。
足音は無い。人影も無い。けれど、さっきまでは感じられなかった、異様な存在感がある。威圧的でおどろおどろしい。
途端に、空気に粘性が生まれた。口の中まで、粘つく不快感が侵食してくる。足元のアスファルトが波打つ。平衡感覚すら、ゆらいでいる。
そちらに意識をさらわれて、視線の大元の方向なんて、すっかり見失っていた。
「――う、……さま」
背後に現れた冷気の塊に、肩が揺れる。寒すぎる。いくらなんでも、おかしい。局地的に、異様に温度の低い空間が、すぐそこにある。
「九条、冬也さま」
まるで合成音声のような、ノイズ交じりで平坦な声。男のものだ。当人のものかは知らないけど、少なくとも、サンプルはそうだろう。
目的が俺なのは、もう、疑い様もない。……これが、夏生を対象にしたストーキングだったなら、まだ始末が良かったのにな。
そんな現実逃避じみたことを考えながら、腹をくくった。理性は全力で警鐘をかき鳴らしているが、今だけは気づかないふりをする。
この先、下手を打って夏生を巻きこむことだけは、避けたい。
漂う冷気をたどるように、身体の向きを変える。
そして、――息を、のんだ。
「な……」
いつの間にか、不審者は真後ろに迫っていた。
能の面をつけた、スーツ姿の人間。体格からして、恐らく、成人男性。中肉中背という言葉が即座に浮かぶような、有り触れた体型、だが。
真白い能面の存在感が、否応なく目を引く。ピシッと折り目のはいった黒一色のスリーピース。濃色のタイを首元できつく締め、革靴には塵ひとつ付いていない。
身なりに加え、さらに存在感を高めているのが、姿勢の良さだ。背筋の伸び、ふるまい。一つ一つから、どことなく洗練された印象を受ける。
――あまりにも、浮世離れした男。
衝撃を、なんとか飲みくだす。内心の焦りを誤魔化すように、間をあけずに口を開いた。
「結構な趣味だね。俺の名前、知ってるのは、……登下校につきまとうくらいだ。そのくらい、おかしくもないか」
薄っぺらい内容を言い連ねる。大概、俺も混乱しているようだ。このパターンはちょっと、想定外というか。特殊すぎるというか。
どう解釈すべきか、思考がまとまらない。ひとまずは、相手の考えを知らなければ、どうにも動けやしない。
感情を無表情で覆い隠した、その上から笑顔を上塗りしていく。多少、嘘っぽくても構うものか。どんな顔だっていい。笑え。動揺も困惑も、なにひとつ表に出すな。
「よっぽど、俺にご執心のようだけど。ご用件は?」
能面が、俺を見上げる。笑っているのか、泣いているのか、――それとも嗤っているのか。感情の混濁した細い瞳は、めまぐるしく印象を変える。
あいまいに歪んだ口もとといい、これこそ、まさに日本人の鑑なのかもしれない。
ゲームセンターで顔を合わせるスタッフの男を思いだした。曖昧の美学。日本人の共有する美徳は、時として不気味さを駆りたてる。
――能面は、ワラった。
「おめでとうございます。冬也さま。天秤は、この度のgameのプレイヤーに貴方を選出されました」
単調な声。ワイシャツの襟に囲まれた喉仏が、セリフに合わせて上下する。機械的に聞こえたけど、かすれた肉声なのか? すこし、意外に思う。
「……勧誘、っ?」
勧誘なら他所でやれ、と応えかけた声が、中途半端に喉に絡まった。――何か、おかしくなかったか。
今、こいつは、たしかに仮面の奥から発話していた。
伝統芸能に使われる、そのままの面だ。空気の抜ける穴なんて、どこにもない。なのにどうして、声がこもっていない?
まるで、能面など存在しないかのように、音が透過した。……ありえない。そんな物質は、存在しない。
嫌な水分が、背筋を流れていく。身体は末端まで冷えきっているのに、妙なことだ。
『冷や汗をかく』って、誇大した比喩表現だとばかり思ってたんだけど。まさか現実に、体験することになるとはね。
全神経を張りめぐらせて、能面と対峙する。
「生憎だったな。俺は、ゲームの類が嫌いなんだ。他を当たれ」
いつまでも鳴りやまない警鐘。心臓は早鐘を打つ。頭の中に無数の鐘の音が反響して、思考を鈍らせていく。
「世界は染まる。貴方の望む色に。この機会を、なげうたれるおつもりですか」
「なんだって?」
「冬也様。『天秤の遊戯』は、きっと貴方の望みを映しましょう。心の奥底で渇望する、もうひとつの現実を。理想の世界を。その手中に収めたくはありませんか」
つらつらと甘言を並べたてて、男は慇懃に腰を折った。胸に手を当てて、深々と。見るものを圧倒させるような、見事な所作だった。
そのまま、顔だけを上向けて、男は告げる。
「――貴方には、資格がある」
真っ直ぐ俺を見据える、あいまいに笑んだ能面。ごくり、と唾を飲みこんだ。
つきまとう視線。
感じられない気配。
異様な存在感。
真白い能面。
機械的でクリアな声。
洗練された動作。
一つ一つが怪しすぎる。あまりにも常識破りで、……だけど、単純に突飛というわけじゃない。
説明できない、不可解な事象の積み重なり。きっと、そんなものがなくとも、俺は悟っていた。本能的に、知っていた。
――これは、ホンモノだ。
ずっと、気づかないふりをしてきた予感に、確信を得る。
滑るように差しだされた、白手袋に覆われた右手。熱に浮かされたような思考の中で、それだけが淡く色づいて見えた。
多分、俺は、どこかで非日常に憧れていた。好奇心と少しの驕り。迷いを振りきるには、十分なエッセンスが揃っていた。
「光栄だね」
無意識に、唇が弧を描く。じわりじわりと、沸きたつ心。
平穏無事、イージーモードな日常。それでいて聳えたつ、すべてがすべて思い通りにはならない現実の壁。なにもかもぶち壊せたなら、どんな世界が見えるだろうか。
しがらみに囚われず、存分に力を奮って、自分自身の才覚の限界を極められたなら。それは、なんて素晴らしい体験だろう。
『最高の舞台をお膳立て』――いっそ芳しくさえある、甘い甘い砂糖菓子のような誘惑が、目の前で揺れている。
固く握りしめた右手を、ゆっくりと開く。湿り気はもう、残っていない。心拍数は正常値に戻りつつある。至って冷静。思考はクリア。
――次の一手は、必然。
能面と同じ、雪のように真白い手袋へ、まっすぐ手を伸ばし、……そして。
「なんて、言うとでも思ったか」
返した手の甲で、躊躇いなく打ちはらった。




