another: W.1-1
放課後の喧噪の中、かすかに聞こえた高音。コツ、コツ、と、リノリウムの床を打つ、規則的なヒールの音に、嫌な予感を覚えた。
「九条くん。いまから、ちょっといい?」
帰り際、教科書をつめた鞄を手に、ちょうど立ちあがったところだった。動きを止めて、廊下へ身体を向ける。
セミロングの髪を一つにまとめた、若い女性だ。淡い色のジャケットに、パンツスタイル。シンプルな装いがよく似合っている。
「志水先生」
教室の出口をふさぐように待ち構える、担任教師の姿に、辟易した。残っていたクラスメイトの視線が、にわかに集まる。
志水絵里は、一昨年、新任でやってきたという国語教諭だ。落ち着いた品のある容姿と、親しみやすい性格で、男女問わず、学生にかなりの人気がある。
べつに、俺だって、嫌いではないんだけど。ただ、少し、若い女教師によくある、お節介な親切心が苦手なだけだ。
わずらわしさに、気分が降下する。表情には出さなかったつもりだったけど、さすが、幼馴染は気づいたらしい。
「冬也? どうかした?」
同じく、簡単に帰り支度をして、鞄を片手に席を立った親友――渡部灰李が、いぶかしげに見上げてくる。
置き勉の常習犯らしく、なんとも軽そうな鞄だ。要領はいいくせに、詰め込み以外の勉強法を知らない灰李の成績は、大体いつも横ばい。
「いや、……。ごめん、灰李。用事あるみたいだから、先行って」
「いいけど、夏生は?」
「どうせ、ゲームセンターだろう? 後で回収に行くから、付き合ってやってよ」
窓の外に広がる、見慣れた校庭の風景。その中に、一人混じった異色の制服。
直接は見えないけど、校門のあたりで、生徒がわだかまっているから、多分、間違いないだろう。――俺の妹は、どこにいても、人目を引く。
「え。夏生と二人は、ちょっと」
「俺がいいって言ってんだから、問題ないだろう。あいつのお守役、頼んだ」
「そうは言っても、周りはそう思わないんだって! 視線が痛いんだよ。そりゃ、冬也はいいだろうけどさ」
「一人にしたって行くだろ、あいつ」
「……まあ、たぶん」
二人で目を合わせて、ため息を吐く。夏生は無頓着だけど、あまり治安のよろしくない一角だ。こっちとしては気が気でない。
渋々、了承した灰李が、踵を返す。みるからに肩を落とした背中に、思わず笑いだしそうになった。
なんだかんだ言って、面倒見のいい幼馴染。
夏生の待つ校門へ向かった親友を見送って、担任――志水絵里に向き直った。
「すみません、お待たせしました」
「いいえ。話があるの。――進路のことで」
声を低めて告げられた言葉は、まさに予想通りのもの。……言われると思った。人当たりが良い、と言われる微笑みを浮かべたまま、心の中で舌を巻く。
「ああ、……指導室ですか?」
「そうね。時間は取らせないから」
「わかりました」
わざとらしいほど、にこやかに、快諾する。
本性を知ってる灰李に言わせれば、不気味らしいけど、大人からの評判は上々だ。ちょっと大げさなくらいの方が、受けがいい。
*****
簡単な応接セットがおかれた指導室で、志水絵里と机を挟んで向きあう。
年季の入ったソファは、校長室からの流れ物で、お世辞にも座り心地は良いとは言えない。色々な意味で、長居はしたくない部屋だ。
腰を落ちつけるなり、彼女は、単刀直入に口を開いた。
「九条くん、本当に進学する気はないの?」
「はい」
「あなたの成績なら、医学部だって狙えるでしょう」
「俺、医者になりたいと思ったことなんて、一度もないので」
「医者になれ、なんて言ってるつもりはないのよ。そりゃあ、あなたの事情は聞いてるけど……でも、今は奨学金制度も充実してるし、もう少し考えてみたら?」
「前も言いましたけど、俺、もう決めてるんですよ」
嘆かわしげにため息をついた志水絵里は、ひたいに手を当てて思案しはじめる。無駄なのだと、何度言っても聞かない。
俺は、進路希望調査で、一年から一貫して、就職と主張し続けている。その度に、担任に説得を試みられてきた。
学校側は、なんとか俺に進学させたいらしい。親切心なのは、わからなくもないけど……。正直、ちょっと迷惑。
「ねえ、九条くん。進路のことは、ひとまず置いておいて、聞きたいことがあるの」
「なんですか?」
「あなたの模試の成績よ」
「模試? ああ、あれは……すみません」
「そうね……途中で解答欄のズレがあって、マークミスも目立ってた。らしくないわね」
「言わないでくださいよ、恥ずかしい」
肩をすくめて、苦笑する。素直な反省の意思を表せば、大抵の場合、そのまま見過ごしてもらえる。さらり、と流してもらえたらよかったんだけど。
志水絵里は、若い教員には珍しく、しぶとかった。学生に人気の柳眉を、きっと吊りあげて、詰問してくる。
「わざと?」
「まさか。なんで、そんなことしなくちゃいけないんですか」
「あのミス……全部、合ってたなら、全国でも上位に入っていたでしょうね」
「へえ」
たしかに、手応えはあったけど、そこまでとは思わなかった。計算違いだ。もう少し間違えておけば、こんな面倒にならなかったかな。
それとも、工作も見破られて加算された? まあ、どっちでも同じか。目を伏せて、思考を打ち切る。
「――そんな数字に、なんの意味があるんですか」
ただの数字だ。形になって現れてさえいない、空論の。心の底からどうでもいい。
自分の容姿が、人に好感を持たれやすいことは、自覚している。使えるものは、いくら使ったっていい。意識して、表情に陰をのせる。
すこしは物うつげに見えるように、演技したつもりだけど。皮肉に歪めた口もとは、逆効果だったかも。失敗したな。
志水絵里は、左手で目頭をもんだ。
「九条くん。あなた、本当に進学する気がないのね……」
「はい」
短く即答する。俺は、何度もそう伝えてきた。
それでも納得しきれない、という様子を見せる彼女に、ずっと黙っていた、本当の理由を告げる。
「妹が、いますから。俺は、あいつを一人にしたくないんですよ」
「たった一年じゃない。少し遠いけど、家から通える大学もあるでしょう。あなたなら、どこでだって上手くやれるわ」
「一年でも、です」
きっぱりと言いきった俺に、志水絵里は困ったように眉尻を下げた。上品な苦笑い。その中に、ようやく、諦めがにじむ。
「そう。あなたの場合、親御さんに相談もできないから、渡部くんにも、話を聞こうと思ってたんだけど――」
「灰李には関係ない!」
がたり、と椅子を立ちあがり、衝動的に叫んだ。すぐに後悔する。志水絵里の涼やかな一重の目が、まるく見開かれている。
「……すみません。反抗期のわがままだと思って、見逃してください。失礼します」
気まずい空気が固まる前に、鞄をつかんで戸口に向かう。
「九条くん!」
引きとめる声に、聞こえないフリを決めこんで、さっさと扉を閉めた。
廊下の壁をにらみつけて、低くつぶやく。
「……灰李は、知らないんだ」
ぐっと、拳を握る。
いまとなっては、ずいぶん昔のことのようにさえ思える。二年前。突然、両親が離婚した。母方に引きとられて、灰李と過ごした、田舎を出た。
――その先を、灰李は知らない。
昨年の春、母の再婚が決まった。幸せそうに微笑む母に、俺たちは、ついていけなかった。中学生の夏生と、二人で決めたことだ。
祖父母との交流は絶えて久しく、それでも当面の生活費と、高校に通う学費だけは得た。この土地に留まり――そうして、灰李と再会した。
だから、灰李はなにも知らない。教えるつもりもないけれど。
「さて。夏生を、迎えにいかないと」
そろそろ、灰李が、諸々の心労でぐったりしている頃かな。やつれた親友の姿を思い浮かべて、くすり、と笑った。




