17.
左手首に走る、痛み。
深く沈んでいた意識が、ふっと浮上した。眠りのほとりから、連れ戻される。
針でつつかれるような不快感を、上から抑えてごまかす。制服のまま横たわっていたベッドの上で身じろぎすると、足元にわだかまっていた布団が落ちた。
袖をまくってみても、そこにはなにも無い。黄味がかった肌に、うっすらと血管の青が透けて見えるだけだ。
「……夢?」
気のせいだろうか。まどろみに落ちる前、ここにはなにか、重要なものがあったような気がするのだけれど。
まあいいか、と緩慢に身を起こした途端、携帯が鳴った。初期設定のままの電子音が、惰眠の名残を吹き飛ばしていった。
マナーモードにしておかなかった、過去の自分自身を恨む。珍しいことに、満充電に近いらしい携帯は、いまだ諦めずに俺を呼びつけ続けている。
番号を知られている人間なんて限られる。これだけしつこくかけてくる相手なんて、俺は一人しか知らない。
ため息とともに、名前も見ずに通話ボタンをおした。耳から10cmほど離した位置で、身構える。
「灰李! ゲーセンいこう!」
案の定、弾んだソプラノボイスが、寝起きの脳にダメージを刻んでいった。幼馴染の少女は、電話の第一声のテンションが高い。相変わらずだ。
「また? 昨日いったところじゃ――」
口にだしかけた台詞が、途中で喉につまる。
昨日? ……ああ、行った。たしかに、行ったはずだ。いつも通り夏生が待ち構えていて、冬也ともども下校途中に引きずられていった。そうだ。
「灰李?」
「え、ああ、ごめん。なんだっけ」
「だから、ゲームセンター」
「本気でいくの? いまから?」
今日は、呼び止められることもなかったから、安心していたのに。
ちらり、と確認した壁時計は午後五時を示している。昼寝に興じていた俺が言えた話じゃないけど、出かけるのは少しためらう時間だ。
「今月の限定キャンペーン、今日までなんだもん。いくしかないでしょー」
「ああ、そういやそんなこと……早いもんだね」
時計のわきへ視線を流す。広告店の名前が入ったカレンダーは、月の終わりを告げていた。
1月31日。口にだして今日の日付を呟いたとき、なぜか、ぞわりと悪寒が走った。冷水を被せられた犬のように、ぶるりと震える。
暖房もつけずに寝こけていたせいだろうか。身体が冷えているのかもしれない。
「ね、だからさ」
「冬也に怒られるんじゃない?」
「ちょっとだけだって! 大丈夫。大丈夫」
「夏生……。どこにいるの」
粘り強く要求をくり返す少女の声のバックに、車のエンジン音が響く。てっきり、室内からかけているとばかり思っていたのに。
窓の外を車が走り去っていく。あまりにもなタイミングに、嫌な予感がわいた。
「もうすぐ着くよ」
「どこに!」
「灰李ー。窓開けて」
「ちょ、まさか」
勢いよくカーテンを開け放つと、夕暮れの光が目を刺した。まぶたを絞って見下ろした路地で、見覚えのあるロングヘアが、風に揺れていた。
気づいた夏生が、こちらを見上げて大きく手を振る。
「時間ないの、早く!」
叫んだ声からすこしのタイムラグを待って、耳もとで再び大音響。さすがに勘弁して欲しい。隣室が空家だからまだ良いけど。頬が引きつった。
そのまま、勝手なことばかり並べて、夏生は通話を切った。沈黙した端末を睨みつけながら、せめて着替えるべくカーテンを閉じた。
普段は気にならない時計の音が、なんとなく耳について離れない。無機物にまで急かされながら、適当な私服をひっぱり出して、制服はベッドにそのまま放った。
「遅い」
全力疾走でアパートの階段を駆け下りた俺に対する、開口一番の言い草だった。荒い息を吐きながら、がっくりとうなだれる。
「これでも急いだんだよ……って、夏生!」
聞き終わりもせずに、さっさと歩きだしてしまった夏生の背中を、慌てて追いかける。
競歩並みのスピードで進む彼女の頭の中は、プレイするつもりの台でいっぱいだろう。大人しげに見えて苛烈、ゲームフリークな幼馴染には、振り回されっぱなしだ。
――カラン、と硬質な音が耳を打つ。ようやく肩を並べようかという瞬間のことだった。
大げさに肩が揺れて、足がぴくりとも前に進まなくなる。全身から血の気が引いた。末端の感覚が失せるほどの緊張感が、唐突に身体を縛った。
「な……」
ふり返った先で、木板がアスファルトに倒れこんでいた。風に煽られて、ますます遠くへと運ばれていく。
古びた看板の一部が剥がれて、落下した音のようだった。そう認識した途端、一気に温度が戻る。胸を抑え、深く、息を吐いた。
「灰李!」
数歩先で立ちどまった夏生が、笑う。
「早くしなきゃ、冬也に見つかっちゃう」
「……やっぱ、黙ってきてるのか」
後で怒られるのは、俺なんだけど。
どうしようもなく夏生に甘い自分を自覚しながら、再び足を踏みだす。おんなじように妹に甘い親友の苦情を、受けとめる覚悟を決めながら。
無邪気に、満面の笑みを咲かせる夏生を見ているうちに、なんだか泣きそうになった。
胸がつまって苦しい。心臓はおとなしいもので、ひっそりと息を潜めている。なのに、締めつけられるように苦しくてたまらない。
……彼女が、笑うから。
ありきたりの日常が愛しい。だけど、苦しい。声にならない叫びが、俺の中を駆けめぐり続けている。
「ごめん――」
その意味すらも忘れられた、届くことのない謝罪をくり返す。空虚な響きさえ宙に溶けて、消える。無垢な瞳が、笑顔が、容赦なく俺を貫いた。
耳の奥ではまだ、時計の針が進み続けている。
>another...?




