16.
カチリ。歯車の嵌る、機械音。ファンファーレにも似た厳かなメロディを奏でて、異空間への扉は、唐突にその姿を現した。
風が止んだ。足音が消えた。生活音のすべてが、まとめて静寂のかなたへ飲みこまれていった。
気がつけば、凍りついた世界の中で、古めかしい門柱が威圧的に聳えたっていた。見上げるほどに背の高い、巨大な扉。
すこし周囲を見回せば、硬直した人の群れが石像のようにずらりと立ち並ぶ。美術品というよりは、墓場のようだった。
飛び抜けて美しいかの人もまた、ひとつの像となってそこにいた。驚愕と動揺、そして決意をないまぜにしたような複雑な表情で、彼女は凍りついていた。
ぞくり、と肌があわだつ。威圧的なこの門が、一体なんなのか、悟ることはたやすい。終わりだ。これは、最後の審判へといざなうゲートだ。
……終わるのか。この戸口をくぐれば、これで、ようやく。高揚感と、恐怖心。少しでも気を抜けば、その途端に膝から崩れ落ちそうだ。
怖い。そして、苦しい。呼吸の仕方さえ忘れそうな緊張感。情けないけど、この先に待つものに、俺はどうしようもなく怯えている。
「……お招き、どうも」
空元気をひねり出しながら、そっと、取っ手に手をかける。俺は、この瞬間を、待ち望んできたんだろう。なのに、どうして。
引き絞られるような胸の痛みが消えない。頭は割れるように痛い。指先が震えて、力が入らない。夏生に首を締められたときの圧迫感にも、どこか似ている。
ああ、くそ、苦しい。苦しくてたまらない。
恋い焦がれた終わりのはずなのに、足も手も言うことを聞きやしない。駄々をこねる子どものようだ。
――いいか、灰李。刻みこめ。生みだす結果から、逃げるな。
深く息を吸って、重厚な扉へ、力をこめた。
*****
内開きの扉をくぐり、天鵞絨の床を踏みしめる。なんど見ても慣れることのない、古びた写真のような洋室。
灰一色に染まった能面が、音もなく、不意に正面に現れた。ぎくりと、足を止める。
――直後、悲鳴のような声をあげて、背後の扉が閉まった。
暗い。辛うじて物の輪郭が追える程度の薄明かりの中、能面のわきから白手袋が差しだされる。どこか見覚えのある手が、丁重に礼をする。
「サア、どうゾ手を。勝者ノ望みヲ、叶エマしょウ」
『蒼氓の天秤』の向こう側から、耳触りな男の声が響く。イントネーションのズレた、機械質な声音。はじめに言葉を交わしたときと、よく似ている。
まさか。そんなはずは。
しかし、考えるよりも先に、反射的にひとつの解が導きだされていた。湧きあがる生理的な嫌悪感こそが、明確に答えを示していた。
「おや? 不思議そうな顔をしておられますね」
器用に片眉を持ちあげた男の顔が、『天秤』の上へ浮かびあがる。あいまいに笑んだ面とそっくり同じ表情をして、進みでた男は丁重に腰を曲げる。
そいつは、やはり印象に残らない凡庸な容姿だった。中肉中背。小太りでもなく細身でもない。平均値を煮詰めて凝縮したような、とりたてた特徴がひとつもない男。
特別、張りがあるわけでもなければ、掠れているわけでもない声。けれど、耳について離れない不快感があるのは、小馬鹿にしたようなその口調のせいか。
ダークグレイのスーツに身を包み、不釣合いなほど洗練された仕草で一礼した男は、正面を漂う灰一色の能面を愛おしげに抱えた。
ど派手な配色のジャケットを脱ぎ捨てた男は、あまりにも無個性で、いっそ不気味なほどだった。
「グレイ……!」
「呼び名に意味などございませんよ、灰李サマ。それは、ワタシを示すひとつの符号にすぎません」
「ぜんぶ、お前が」
「なにを驚かれているのか、わかりかねますね。何度も申しあげておりますように、ワタシは、『蒼氓の天秤』より全権を預けられた『代理人』です」
ひょい、と戯けた仕草で肩をすくめた男は、『灰』の担当だと名乗り、折に触れて俺の前へと現れた『代理人』そのものだった。
どうして、気づかなかったのだろう。
憎しみ。困惑。怒り。後悔。
さまざまな感情が吹きすさんで、つかの間、なにも考えられなくなった。痛む頭を押さえながら、よろめいて後退する。
ガクガクと震える膝を叱咤して、噛みしめた歯列の間から言葉を絞りだした。
「要、するに……お前、『支配人』ってことかよ……」
「そうとも言えますね。『天秤の遊戯』に関する裁量は、ワタシに一任されておりますので」
くつり、といつものように喉を揺らしたグレイが、大げさな身振りで両腕を掲げる。
「さあ! どうぞ手を、灰李サマ。契約はいま果たされ、あなたの『望み』は満たされる。なんと喜ばしいことでしょう」
反射的に逃げをうった身体は、ガツン、と激しい音を立てて窓枠にぶつかった。いつから壁際にまで追いつめられていたのか。
違う。俺が逃げているだけだ。俺が勝手に、怯えているだけだ。だけど。
グレイの手が迫る。いつになく落ち着いた色の袖は、素人目にもわかる高級感を持った布地だった。
違う。
目の前を、白手袋に覆われた手のひらが包む。間近に迫ったそれに瞬間、視界を奪われて、これ以上下がりようもないのに後ろへとにじる。
違う。
なけなしの力を足にこめたって、硬く冷たい壁に押し返されるだけだ。窓枠の角が、背中に突き刺さる。
違う。
払いのけようと伸ばした左手を捕まえられ、喉からひきっつった音が漏れた。氷のように冷たい指。手袋ごしなのに、熱くて痛い。感覚が麻痺しそうだ。
なにが、違うんだ。
「いっ……!」
とらえられた左手首をとりまく茨――『契約痕』が、めまぐるしく動きだす。白く、黒く、色を変え、蔦をのばし、俺の手首を締めあげていく。
棘が突き刺さるような鋭い痛み。傷もないのに滲みだした血が、赤い輪を作る。灰色に落ち着いた茨が、血液をまとって赤く染まる。異常な光景。全身が弛緩して、抗う意志さえ押し流されていく。
身をかがめたグレイが、その平凡な顔を耳元へ寄せる。チラリと見えた表情は、やはり能面によく似ていた。感情のごった煮。すべてを混ぜこんだ末の無表情。
「ワタシはね、逃げ場のない袋小路に追いこんだ人間に、脇道を与えるのが好きなんですよ」
吹きこまれる呼気さえも、氷点下の冷たさを持っていた。
「なに、言ってんだ……お前」
凍りつく。内側から固められていくようだ。動かない。動けない。どう足掻いてももう、取り戻せない。
グレイがワラう。耳もとで、首もとで、くつくつと喉を震わせる。
「たった一つの希望に、必死の思いで縋りつく様の、なんて滑稽で愚かなこと。その一途さは愛おしくさえある。崩れかけた脇道を救いだと信じて、誰もが駆けこむのです。さらなる惨劇への入り口とも知らずにね――」
身体が、後ろへ傾ぐ。頼るべき壁はない。床もない。真っ逆さまに落ちた。深く。深く。深く。黒一色の世界へと。沈んでいく。寄る辺はない。抗う術もない。
混乱する頭の片隅に、ああ、九条の瞳に似ていると、そんな意識が流れて消えた。
痛みが遠ざかる。記憶も遠ざかる。逆流する時計の針が、悲鳴のような音を立てる。頭が割れるように痛い。どうして痛いんだっけ。
溺れる。肺に残っていた空気が、まとめて消えた。喉もとを抑えて、喘ぐ。
首にかかる圧迫感。息ができない。おかしいな、水圧で首がしまるなんざ、聞いたことがない。でも、苦しい。どうしようもなく苦しい。
そんなつもりじゃなかったのに。また同じ過ちを、くり返すのか。
違う。違うんだ。俺は。ただ。
「またのお越しを。お待ち申しあげておりますよ……灰李サマ」
見知らぬ男の笑い声が、やけにうるさく、耳についた。
*****




